茶屋が知っている限り、この縁談は、あれからずっと揉めつづけて来ていた。 秀吉は、家康が大坂へよこした使者の、天野三郎兵衛が、気に入らぬと言って、 「──
この大切な婚儀の打ち合わせに、秀吉の顔も知らぬ者をよこすとは何事じゃ。早々に、酒井、本多、榊原のうちから人選をし直して参れッ」 と、怒りだした。 そこで、京都にあったお使い番の小栗大六がびっくりして浜松へ馳せ戻り、その由を家康に報告すると、家康は家康で、 「──
さように不快なことを聞くよりは、婚儀は注視にしかず、天野を呼び戻せ」 木で鼻をくくったような返事だったという。 びっくりしたのは織田信雄や、有楽や、滝川雄利などで、 「──
そのようなことになったのでは、われらの面目がまるつ潰
れ、これはひとえに、関白のわがままを許されまするよう」 と、とりなした。 茶屋には、一応そう言って、秀吉の申し出に抵抗しなければならない立場はよく分っていた。 そうすることによって、秀吉に快
からぬ家中の者も、北条父子も納得しようし、秀吉側の諸侯もまた家康を見直すはずであった。 果たして家康は、はじめの予定の、四月二十八日の婚儀をひとまず延期することにして、この縁談に最も強く反対していた本多平八郎忠勝を四月二十三日に至って上洛させた。 忠勝が京へ着いたときの、秀吉の彼に対する駆け引きもまた見ものであった。 彼は内野の第で忠勝を正式に引見すると、夜に入って、単身ひそかに忠勝の宿舎を訪れていったという。 どこまでも秀吉らしい放胆
なやり方で、そこで秀吉は、長久手の戦の折のことなどを肩をたたかんばかりに打ち解け方で話した末、忠勝に相州貞宗
の脇ざしに、藤原定家
の小倉 の色紙
を添えて贈り、以前には怒っていた天野三郎兵衛康景にも、高木貞宗の刀をやって、無事に結納の儀を取りすましたと言うことだった。 そうなると、茶屋には、双方の苦心のあとが痛いほどよく分り、 (時勢は変わった!) と、しみじみ思わずにはいられなかった。 秀吉も家康も、とにかく戦は避けねばならぬと考えだしている!
つい五、六年前までは、全くなかった新しい空気であり、その立派な証拠として見るときに、今日のこの行列の意義はあった。これこそ新しい時代を開く扉であるとさえ言える。 ただ、当の朝日姫が、そのような大きな時代の動きと、わが身の不幸な婚礼とを結びつけて考え得るものかどうか・・・・? (考えられるものではない!) 茶屋はそう思うと、眼の前からもう遠く消えていった行列の中の朝日姫に、手を合わせて、それを告げたくなっていった。 「どうぞ耐えて下され・・・・このように、地上にあふれてお見送りする、大勢の民
百姓のよろこびのためになあ・・・・」 納屋蕉庵は、何を考えているのか、茶屋四郎次郎を労
るような無視のし方で、あとからやって来た淀屋常安としきりに何か話しこんでいる・・・・ |