〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/19 (土) 時 世 の 流 れ (六)

「時に茶屋どのは何か、わしに・・・・」
蕉庵がそう言い出してくれなかったら、茶屋は客の戻るまで、自分の用を言い出しかねたに違いない。
それほどに、ここでの空気はあいあいとしたものであった。
(いつの間にか平和の風が人の心をほころ びかけさせている・・・・)
「実は、折り入ってお話し申し上げたい儀がござりまして」
「そうであろう。では、中座して、あちらの離れでお話し申しましょうかの」
「そうお願い出来ますれば・・・・」
「ではみなさん、ちょっと失礼して参りまする、木の実、みなさんにお食事の用意をな。あとで、わしも茶屋どのもいただくゆえ」
「はい、用意は、申し付けて参りました」
「では、茶屋どの」
二人は立って中庭を距てた風雅な離れへ飛び石伝いにわたっていった。
ここではもう、軒先の桜が大きくふくらんでいる。
「また、三河から何か言うて来られましたな」
三方に濡れ縁をまわした数奇屋すきや 造りの八畳間の中央に坐ると、蕉庵の方から先に話を切り出した。
「はい、それが、ちょっと気にかかる節がござりまするので」
「というと、徳川どのは戦の用意でもなされておられるのかな」
「その事でござりまする。関白どのが朝日姫の婚嫁を種に油断させ、一戦しかけるやも知れぬ・・・・と、そのゆに解しておりまするようで」
「ふーむ」
と、蕉庵は考え込んだ。
「表向きは、徳川どのも、ご婚礼を承知なされたと聞きましたが・・・・」
「はい。先達てその折の進物でござりましょう。豹の皮、虎の皮などのほかにまたしじら三百反のご注文がござります」
「しじら三百反」
「はい、それを、こんど調ととの えて送るつもりで参りました」
「しじらを・・・・のう」
蕉庵は、光る眼を宙にすえて考えて、
「関白殿下に、一戦するつもりなどはない。これは、宗易や、曾呂利がよう見きわめてある」
と、ひとり言のように言った。
「すると、これは、浜松のお館さまの思い過ごしでござりましょうか」
「お待ちなされよ。そのような勘違いなどなさる徳川どのではないはずじゃが・・・・」
「とにかく、ここ当分、関白殿下のご動静をよく見きわめて知らすようにと申してまいりました」
「それが・・・・おかしいことよのう」
「その折の、密使が、厳しい軍備のこと、甲信では百姓どもからまで人質とったと言うことを、それとなく打ち明けてゆきました。いまにも戦になりかねないようなことを・・・・」
「茶屋どの」
「はいッ」
「これは徳川どのの策略じゃぞ」
「策略・・・・? でござりましょうか」
「そうじゃ。目あては関白殿下ではない。これは小田原への見せかけじゃ。しじらの注文も、結納ゆいのう のためではのうて、小田原への贈り物であろう」
そう言うと、蕉庵は声を落としてニッと笑った。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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