わざわざ動静を探るまでもなく、近ごろの秀吉は、おおらかに、京から淀
、八幡、大坂、堺と、のし歩いている。 すぐこの月のはじめには、坂本城へ出て行って大津あたりでも茶の会や連歌などをやっている様子であったが、それはどこまでも風流関白気取りの遊山
であって、出陣、出兵などの大事な意味をかくしていそうには感じられなかった。 もともとそのような意志があったとしたら秀吉は隠しはすまい。そうした場合の彼は必要以上の大宣伝で、戦う前から相手の戦意を喪失させようとする
「位攻め」 の遵奉者
なのだ。 それを家康が知らぬはずはあるまいに・・・・そう思うと、茶屋四郎次郎は、首を傾けずにはいられなかった。 秀吉とはまったく違った用心深い家康の性格は分っている。ある点では疑い深いと思えるほどに慎重な家康だったが、しかし、家康の動きや指令に全然意味のないことはかってなかった。 (と、すると、何のためにそのような用心を・・・・) 大将が武将から人質をとるのは士気をめ、相手の覚悟を決めさせるために、ほとんど習慣化したやむない事情のものであったが、百姓からまで人質をとるようなことは珍しい。 そのためにかえって領民の反感をたかめ、一揆や騒動を誘発するおそれがあるからだった。 それをしかし家康はあえてしてまで、総動員の構えを完了しているというのである・・・・ 茶屋はわが居間の狭い庭に咲き誇っている紅梅の花を見ているうちに不安になって来た。あるいは、自分の全く知らぬ事情の変化かもつれが伏在しているのかも知れない。 (これは、少々安堵しすぎていたのであろうか・・・・) そこで手を鳴らして手代を呼ぶと、 「わしは、これから堺まで出向いて来る。急な用を想い出したのでな」 そう言ってから、 「ときに、関白殿下は、いま、いずれにおわすかのう」 自分の知識と世評の照合を考えてきいてみた。 「はい、淀から内野におもむかれまして、細川幽斎
さまの縄張りなされた、新邸のご普請場へ成らせられたそうでござりまする」 「そうか、では、まだ、大坂へはお戻り遊ばされぬのじゃな」 「はい」 「よろしい。ではすぐに支度をして下され。殿下がこちらにお出
ででは、宗易 どのはじめ、堺衆のおよそはお伴で留守であろうが、その方がかえって買い物にはよいかも知れぬ」 ひとり言をよそおって、自分も立って身支度にかかった。 まだ時刻は九ツ半
(午後一時) これから伏見へ駆けつけると、淀屋船で今夜のうちに川を下れそうであった。 堺では宗易や宗及は留守であっても、納屋
蕉庵 はいるに違いない。蕉庵に会って情報を確かめよう・・・・蕉庵は、秀吉と家康に手を握らせようとして、陰に陽に骨を折っている。いずれの味方でもない、大きな意味での中立的な人物だった。 |