〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/13 (日) 犠 牲 の 風 (六)

「作左、なぜ黙っているのじゃ。この部屋にはそちとわしだけではないか」
家康が、もう一度身を乗り出すようにして話しかけると、
「フフン」 と、作左は、泣いているような、あざけ っているような声で笑った。
「すると殿は、この作左が数正と相談して、大事な家風を壊すような小細工をしてのける・・・・そんな男と思うてござったのか」
「そうではない。数正がもし打ち明けるとすれば、そちよりほかにはないと思うたのだ」
「殿はバカじゃ!」
「そうかの」
「大バカ者じゃ! 三河武士の本領は、質実剛健、裏表ない律義さのうちにある」
「ふーむ」
「才気煥発の小才子は、ときにはどこにもあるものじゃ。が、表裏ない律義一遍の家風が三年、五年でできると思うておわすのか。わしは殿の今の言葉でがっかりした・・・・」
家康は、再び目をすえて作左衛門を見つめだした。
数正のために泣いてやりたい家康の感情を、このひねくれ者は、口をきわめてののし るのだ・・・・
「それでは仮に数正が、考えあって立ち退いたとしても浮かばれまい。そのように浅い心で見られたのでは」
「・・・・」
「たとえ、作左が、数正に心中を打ち明けられていたにせよ、そのようなことを口外したり、それに賛意を表すような作左・・・・と、思われるのが心外じゃ。殿は、殿の一番大事な宝を忘れてござる。殿の宝は、三河武士の根性じゃ。泥くさいが律義な家風じゃ! それを忘れて、大事な家風を壊すような小細工に、何で加担するものか。わしは・・・・わしは・・・・心の底から数正を憎んでやりまする」
家康は再びギクリと胸を突かれて眼を光らせた。
皺だらけの作左に眼からすーっと一筋、涙が糸をひいている。
(そうか作左め、知っていて、しかし憎むと言っているのか・・・・)
家風。
表裏ない家風。
いつかあたりは明るくなり、燃え尽くした燭台の灯りが、ジーッと音をたてて消えていった。
「そうか・・・・わしは大バカ者か」
「殿! 言葉が過ぎたら、お許しなされ」
「そうかも知れぬ。それでは、そちも、そして数正も哀れじゃのう」
「いいや、数正は憎い! 憎い奴でござりまする」
「作左」
「はいッ」
「覚悟は決まった。わしは今日は岡崎へは たぬぞ」
「岡崎へ発たずに何となされまする」
「小田原へ使者を出そう。それが先じゃ」
「なるほど第四が第一か」
「そして岡崎へは明日発って、西尾の防備から岡崎の模様替えにかかってゆこう。陣法ことは手配済みじゃ」
「そうすると、その後は?」
「わしも正妻を持つとしようよ。それがよさそうじゃ。よし、正信を呼んでな。それから湯づけの用意じゃ。そちも一緒に食べてゆけ」
そう言うと、家康は自分で大きく手を鳴らした。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next