「作左、なぜ黙っているのじゃ。この部屋にはそちとわしだけではないか」 家康が、もう一度身を乗り出すようにして話しかけると、 「フフン」
と、作左は、泣いているような、嘲
っているような声で笑った。 「すると殿は、この作左が数正と相談して、大事な家風を壊すような小細工をしてのける・・・・そんな男と思うてござったのか」 「そうではない。数正がもし打ち明けるとすれば、そちよりほかにはないと思うたのだ」 「殿はバカじゃ!」 「そうかの」 「大バカ者じゃ!
三河武士の本領は、質実剛健、裏表ない律義さのうちにある」 「ふーむ」 「才気煥発の小才子は、ときにはどこにもあるものじゃ。が、表裏ない律義一遍の家風が三年、五年でできると思うておわすのか。わしは殿の今の言葉でがっかりした・・・・」 家康は、再び目をすえて作左衛門を見つめだした。 数正のために泣いてやりたい家康の感情を、このひねくれ者は、口をきわめて罵
るのだ・・・・ 「それでは仮に数正が、考えあって立ち退いたとしても浮かばれまい。そのように浅い心で見られたのでは」 「・・・・」 「たとえ、作左が、数正に心中を打ち明けられていたにせよ、そのようなことを口外したり、それに賛意を表すような作左・・・・と、思われるのが心外じゃ。殿は、殿の一番大事な宝を忘れてござる。殿の宝は、三河武士の根性じゃ。泥くさいが律義な家風じゃ!
それを忘れて、大事な家風を壊すような小細工に、何で加担するものか。わしは・・・・わしは・・・・心の底から数正を憎んでやりまする」 家康は再びギクリと胸を突かれて眼を光らせた。 皺だらけの作左に眼からすーっと一筋、涙が糸をひいている。 (そうか作左め、知っていて、しかし憎むと言っているのか・・・・) 家風。 表裏ない家風。 いつかあたりは明るくなり、燃え尽くした燭台の灯りが、ジーッと音をたてて消えていった。 「そうか・・・・わしは大バカ者か」 「殿!
言葉が過ぎたら、お許しなされ」 「そうかも知れぬ。それでは、そちも、そして数正も哀れじゃのう」 「いいや、数正は憎い! 憎い奴でござりまする」 「作左」 「はいッ」 「覚悟は決まった。わしは今日は岡崎へは発
たぬぞ」 「岡崎へ発たずに何となされまする」 「小田原へ使者を出そう。それが先じゃ」 「なるほど第四が第一か」 「そして岡崎へは明日発って、西尾の防備から岡崎の模様替えにかかってゆこう。陣法ことは手配済みじゃ」 「そうすると、その後は?」 「わしも正妻を持つとしようよ。それがよさそうじゃ。よし、正信を呼んでな。それから湯づけの用意じゃ。そちも一緒に食べてゆけ」 そう言うと、家康は自分で大きく手を鳴らした。 |