〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/13 (日) 犠 牲 の 風 (四)

「うかつな事を口にするな正信。わしがそのような小策を弄する男に見えるかそちの眼には」
家康にたしなめられても、まだ正信はまばたきを忘れたように相手から眼をそらさなかった。
(確かに家康は数正を憎んでいない・・・・)
もし数正が、家康の内意を受けて出奔したのであったら充分彼も知っておかねばならぬことであった。
「正信、こなた、疑っているようだの」
「は・・・・はい」
「それならば申し聞かすが、そのような小策は、この家康のとらぬところじゃ。また秀吉は、そうした事に気づかぬような仁ではない。だがしかし・・・・」
「だがしかし・・・・」
正信は鸚鵡おうむ 返しに答えて、じっとまた前こごみに耳を近づけた。
家康はいよいよ声をおとして、
「だがしかし、数正がわしを憎み、わしを怨んで出て行ったとも思われぬのじゃ。あるいは数正の肚には、こなたが疑っているような、ある夢があってのことかも知れぬと、わしも、思い惑うているが・・・・」
家康はそこまで言って、ふっといちど言葉を切ると、
「わしが数正の裏切りを憎んでいないと見えたのでは家中の束ねがつきかねる。その点は充分に注意しよう」
正信ははじめて視線をそらして、ホッと肩で息した。
「理由はどうであろうと裏切りはやはり裏切りにござりますれば・・・・」
「いかにも、その点は、数正め、充分心得ていればこそ、妻子まで伴っていったのであろう。よし、夜明けを待っては相なるまい。すぐに作左を呼んでくれ。作左を呼んで、とにかく国境まで討手うって を出させておかねばならぬ」
「その事でござりまする。これは、たとえお館の内意を受けたものにせよ・・・・」
正信がそこまで言ったときに、
「殿!殿!」 と、廊下に荒々しい足音がして本多作左衛門の声であった。
「殿! 数正めが、人もなげに、妻子まで引き連れて、これ見よがしに岡崎を退転したそうで」
「おう、作左か。いま、迎えにやろうとしていたところじゃ」
家康が声をかけたときには作左はもう正信のわきに坐って、あらく息をはずませていた。
「殿があまりに甘やかすからじゃ。われらが、数正めの挙動に腑に落ちぬふしがあると、あれほど言うてもお信じない。飼い犬に手を噛まれて・・・・いったい殿は、な、なんとさっしゃるお心じゃ」
その憤怒ふんぬ があまりに真に迫っているので、本多正信は、眼をパチパチしながら、作左と家康を見くらべている。
家康は渋い顔になって、眼をそらすと、
「大きな声じゃのう作左」
「さよう、かように甘いことで家中の仕置しおき きがなるものか。岡崎へは酒井どのと家忠どのが馳せつけてあるとうけたまわりましたゆえ、まっ先に、数正を引っ捕らえ、八ツ裂きにいたすよう、殿の指図を待たずに使いを出しました。あ、それから正信、おぬしは座をはずしておれ、わしは殿に掛け合わねばならぬことがある。殿!」
そう言うと、作左衛門は、半白の頭を振って、食いつくように家康に向き直った。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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