童坊が茶をささげて来ると、家康はそれをゆっくりとすすった。 まだ夜は明けかけず、釜
の音と、緊張しきった小姓たちの息づかいとが、しだいにこの部屋をあたためだしている。 「お館の目にも、やはり石川どのの挙動は怪しくおうつりなされておわしましたか」 家康はそれにもまた答えなかった。 怪しく映じていたと言えば、言えぬこともない。が、その反対に、どこかで、家康は、数正の出奔を待ち受けていたようでもあった。 (ここで、ひと思いに秀吉の内懐へ飛び込んで、向うの内部から働きかけてくれるものがあったら・・・・) しかしそれは、頑固に義理を重んじ、それゆえに三河武士の名を得て来ている彼の家中では望むべきことではなかった。 どこまでも素朴に律義
に、がっちりとした団結をもって押し進もうとしている家風が、小策を弄
すという印象のために崩れ去ったら、それこそ庇
の眺めを思うて柱を抜くの愚にひとしい。 それだけに、数正の前で、ふとそれを匂わしそうになり、あわてて自重したことは二度や三度ではなかった。 「とにかく夜が明けましたら、動き出さねばなりませぬ。必ず家中に石川どのと同腹のものもあろうかと存じますれば、内々のお指図をうけたまわっておきとう存じまする」 「ふーむ、まだ、ほかに大事なことを考え落としているかのう」 「恐れながら、石川どののご一族の処置は?」 「家成や、老尼がことか」 「はい。何分にもこれは謀叛でござりまする。謀叛の罪は九族に及ぶとか」 「ハハ・・・・家成や老尼などが、何で数正の出奔を知るものか。一人を失うて血迷うては人の笑いを招こうぞ」 「では、ご一族はお構いなしと・・・・」 「罪なき者を罰しては、家中の束
ねがつくまいが」 「では、岡崎のご城代は?」 「それは老臣どもと相談のうえじゃが、そちにも思案があろうゆえ、その折に申せ」 「お館さま!」 「何じゃ改まって」 「お人払いを願わしゅう存知まする」 「ほう、まだ大切なことを言わずにおいてあるのか。よし、みな、遠慮いたせ」 その声で、小姓や童坊たちは燭台の丁子
を切って次の間へさがっていった。 そろそろ外は白みかけ、湖面に風が立ちかけている様子であった。 「お館さま! 正信には、腑に落ちぬことがござりまする」 「フーン」 「お館さまは、石川どのの出奔を、さしてお驚きになされませぬ。いいや、お驚きないのはご沈着なご気性ゆえとわかりまするが、少しも憎んでおいでなさらぬように見えまする。これはいったい、どうしたものでござりましょう」 「そうか、憎んでおらぬと見えるか」 「はい、恐れながら石川どのは、お館の秘命を帯びて・・・・」 正信がそこまで言うと、 「シーッ」
と、家康は鋭い眼をして膝をたたいた。 |