〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/13 (日) 犠 牲 の 風 (二)

小書院ではすでに小姓と童坊どうぼう たちが起き出して家康の出てくるのを待っていた。
「お茶を」
と、正信は童坊に命じておいて、
「本多作左衛門どのをすぐに召し出しましては」
家康は静かにかぶりを振って座についた。
「夜が明けてからでよかろう」
「それにしても、心外な石川どのが振る舞いにござりまする」
「・・・・・・」
「忠誠篤実とくじつ 、鉄心石丁は三河武士の誇り・・・・それを見事に裏切るとは。累代るいだい のご恩を何と心得ておられるのか」
「・・・・・・」
もうなってはやはり、小牧以来の風評は、事実だった! あのころから秀吉に内応していたに違いない・・・・と、みずから白状したも同然でござりまする」
「正信」
「はいッ」
「岡崎城はすぐさま改築せねばならぬのう」
「は・・・・?」
「城の勝手を数正は知りすぎている」
「い・・・・いかにも」
「それから西尾城から海への備えも変えねばなるまい」
「まことに憎い石川どのの所業でござりまする」
家康はそれに直接答えようとはせず、
「まさか秀吉にたず ねられては、嘘も言えなかろうてなあ」
「は? 何と仰せあられました」
「数正がことよ。秀吉に訊ねられては嘘も言えまい。それゆえ、備えは変えなければならぬ」
「仰せのとおりでござりまする」
「正信」
「はいッ」
「夜が明けたらの、甲州の鳥居とりい 元忠もとただ と、成瀬なるせ 正一まさかず に、すぐにやって来るよう使いを出してくれぬか」
「あの、鳥居どのと成瀬どのに・・・・?」
当時鳥居元忠は甲州の郡代であり、成瀬正一は奉行であった。
「すると、甲州からまで軍勢をお廻しなされねば納まらぬ・・・・と、お館さまはご覧なさるのでござりまするか」
家康は、ふと眉根を寄せて苦笑した。
「正信」
「何か別にお考えが・・・・」
「おぬしはやはり武事にはうといぞ」
「で・・・・ござりましょうか」
「わしが、鳥居や成瀬を呼び寄せるのは、軍勢を連れて来いと言うのではない。彼らに前もって、信玄どのの国法、軍旅の備え立てから武器武略の一般を仔細に調べておくよう命じてある。それを持参せよという意味じゃ」
「・・・・」
「分るであろう。数正は秀吉に訊ねられると嘘は言えぬ。それゆえここで、徳川家の陣法も一気に変更しておかねば、内懐うちぶところ がまる見えになってしまうわ」
そう言われると、正信はいきなりその場へ平伏した。
思いがけない数正の出奔で、正信の憂えているのは今日明日の騒ぎであり、家康の憂えているのはその先であった。
「するとわが君には、もしや・・・・石川どののご謀叛を、すでに見抜いておわしましたのでは」
家康は、そっとかたわらをむいて、
「茶を・・・・」 と、言った。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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