数正の出奔したあとで、三河の混乱も激しかったが、鏡川
をわたって尾張へ入るまでの数正の心境もまた容易ならぬものがあった。 もし途中で追手
のために生命を落とすような事があっては、今までの苦心が水泡に帰するばかりでなく、今は豊臣と姓を改めた秀吉と、徳川家の間を繋ぐ大切な平和の紐
は断ち切られてしまうのだ。 (おそらく家康は、自分の出奔を知っても、すぐには後を追わせまい) そう信じながらも、万一に備えて、しんがりはしっかりと固めさせていた。 腹心の家臣のうち、中島作左衛門、伴三右衛門、荒川惣左衛門の三名は、前夜すでに米野に先行させ、馬百頭と笠百蓋を持って国境まで出迎えさせるように手配させてあったので、渡辺金内、佐野金右衛門、本田七兵衛、村越伝七らが、それぞれ武装した家人
とともにうしろを見張った。 まっ先に長男の康長と末子の半三郎を立て、続いて女子供をおき、数正自身は、その女子供としんがり勢の間に控えて前後に備えた。 十三日を選んだのは、言うまでもなく夜旅を思うて月齢を計算した決定だったが、騎乗は数正一人で、他は全部徒歩
によらしめた。 旅に必要な馬百頭は、現在あらゆる場合に備えている徳川家にとって大切な戦力、それを数正はそのまま引き出してきて減殺させるに忍びなかったのだ。 (馬まで、尾張の内に求める、その心が頑固者たちに分るかどうか・・・・?) おそらく数正が出奔しても、一族の石川家成や、数正の祖母の妙西尼に家康からおとがめはあるまい。ろ言って、もし三河の内で捕らえられれば謀反人として磔柱
にのぼされることは必定だった。 そうなると、孫の数正に、幼い折から仏道を説きつづけた祖母の悲しみは想像に余りある。 「── 追う者があったらの、用捨
はいらぬぞ。抜きつれて追い散らせ。そして声高に喚
いてやるのじゃ。鏡川の向うには迎えの軍勢が来ているのじゃとなあ」 そう言ったらあるいは斥候
が、事実を確かめに国境へ先駆してゆくかも知れない。先駆してみれば馬百頭を連れた中川三四郎と、先行している中島作左衛門らがやって来ているので、月光の下では充分これが大軍にも見えようという計算であった。 しかし、その計算が、予定どおりに行けば行くほど、石川数正は、傍若無人
に主君を裏切って城を立ち退いた謀反人、三河武士の風上にもおけぬ男と悪声を放たれるわけであった。 (── 一番無欲な者が、欲にころんだ不義者に見えてゆく・・・・) それでよいのだ!
と、思うたびに、数正の瞼の裏へは家康の顔が明滅した。 六歳で人質に送り出される折のあどけない家康の顔。 駿府の大広間から富士に向かって悠々と放尿したときの八歳の顔。 築山
どのと婚礼するときの若武者ぶりから、田楽
狭間 での合戦のあとの顔・・・・ そして最後に鶴の吸い物とともに声をかけられた、つい十二日前の顔を思い描くと、数正はグッと息が詰まりそうになった。 (わしは、よくも、よくも殿に惚れたものじゃ・・・・) |