明くれば十一月十二日
── 天野又左衛門が大給へ向けて出発すると、数正の行動を怪しんでいる同心の眼はひとしくそれに集中した。 昨夜、城内の数正に居間で、彼らが寄り合っていたことはすでに洩れているからだった。 大給では陣代の松平五左衛門が、天野又左衛門の口上を聞くと、刀の柄
を叩いて激怒した。 「なに、返事をくれと・・・・たわけた奴め、重ねて参ると斬って捨てるぞ」 真っ赤になって追い返したが、すでに夜になっていたので、報告はしなかった。 翌十三日は当主源次郎家乗の仏事があり、十四日に至って、五左衛門は、 「──
このような誘いを受けたは、われらの根性の至らぬところがあるゆえじゃ」 そう言って、一子新治朗
を人質とし、家臣二人を差し添えて浜松の家康のもとへ遣わしたのだが、そのときはすでに石川数正は岡崎城を出発したあとであった。 十三日の夕ぐれ時だった。 城の内外に住む侍たちが、それぞれわが家で着がえを済まして、これから寛
いで膳に向かおうとしているときに、急に城内の警鐘
がけたたましく鳴りだした。 人々は最初に火災を連想し、それぞれ戸外へ出てみたが、火の手はどもにも見当たらなかった。 「何であろう?」 「とにかく登城して見ずばなるまい」 「ただ事ではないぞ。あの城番のあわてた早鐘
は」 真っ先に駆けつけたのは杉浦藤次郎時勝であったが、そのときにはもう逃げおくれた数正の雑兵
数人を濠 近くに見かけたのみで、しばらくは何のことやらわからなかった。 「城番、何としたのじゃ。何ゆえの早鐘じゃ」 「はいッ、石川伯耆守さまが、武具を召され、家来衆を引き連れて城を出られましたので」 「なに、石川どのが・・・・?」 あわてて確かめにかかっている間に、新城七之助が駆けつけて、まず城門を閉ざさせた。 その行動に疑惑を抱き、仔細
に監視していながら、彼らはまさかに数正が悠々と家族を連れて退転するとは思っていなかったのだ。 四方へ使者が飛び、しだいに城下は動揺しだした。 ある者は、近くに秀吉勢がやって来ているに違いないと言い、ある者は、矢矧川
の東に攻め入った雑兵の姿を見たと言った。 城の中は森閑
と静まり返っているのだが、城下の辻々へは警護が立ち、町人の入り口は騎乗の同心が足軽をひきいて固めなかればならなかった。 大賀弥四郎のときとは違い、何分にも相手は徳川家の柱石
と言われた石川数正なのだ。 不意を衝かれて追跡する暇はなく、逆に守勢に立って流言を鎮
めなけらばならなくなってしまったのだ・・・・ 「静まれ、騒ぐまいぞ」 三里離れた深溝
から、松平家忠が汗馬
に鞭打って駆けつけたときはすでに子
の刻 (十二時) 近く、続いて松平伝三郎重勝も手勢を引き連れてやって来たが、城下の静まったのは十四日の辰
の刻 (午前八時) 、吉田から酒井忠次がカンカンになって到着してからであった。 |