〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/09 (水) 出 奔 (六)

「こなたが、そのように言うたとて、いったんこうとお心を決めなされた父上が、思いとどまると思うていやるのか」
母にそう言われると、康長はいっそう きこんだ。
「だからと申して、お館さまのお許しも得ずに、この城を退転できると思われますか。それは謀叛むほん と同じ事じゃ。まるほど、大坂には弟の勝千代がおりまする。が、その勝千代の愛にひかれて、主君を裏切ったと言われては、あとの残る大祖母ばば さまをはじめ、一族はどうなりまする」
「まあ、お待ちなされ」
妻女はまた柔らかくさえぎって、そっと良人の顔色をうかがった。
数正は、黙って薄く眼を閉じたまま、母とこの問答を聞いている。
「父上にはな、私やこなたではどうにもならぬごう がおありじゃ。たぶん無事に退転なさる方法はお考えであろう。ここでは父上のお申しつけに従いましょう」
「またしても母上が業と言われる・・・・業とは何でござりまする。そのために、一家一族が犠牲にならねばならぬほど、価値あるものとは受け取れませぬ」
「これはしたり・・・・
妻女はふっと表情を引き緊めて康長に向き直った。
「父上はなあ、これが正しい・・・・これが生き甲斐と思うたこ事は、思い止めることのできないものをお持ちなのじゃ、それが業じゃ。二十余年も連れ添うて、母にはそれがよう分る。頼みじゃほどに、父上の正しい生き方と信じたことに、こなたも を折ってたもらぬか」
「そうじゃ!」
と、また勢い込んで幼い半三郎が応じた。
「父上は、正しくない事はせぬお人じゃ」
「待て!」
数正は眼を閉じたまま半三郎を制して、
「よし、わが業のために、不同意の康長までは同行すまい。斬るのも止そう。こなたは、本宗寺ほんそうじ 内の大祖母のもとへなりとおもむいているがよい」
大祖母とは、数正の祖父にあたる石川安芸あき の妻女、熱心な真言信者で、いまは庵室住居ずまい をしている妙西尼みょうさいに のことであったが、それを聞くと、さすが康長もふっと黙った。
(父の出奔のことは知らなかった・・・・)
そんな申し開きでもし自分に生命が助かるものとすれば、それは家康との間に、何か暗黙の了解があるのに違いないと思われたからであった。
「叔父の家成もいることゆえ、こなたの申し開き次第で、必ず斬られるとも限るまい。よし、もはや同行する家臣どもも集まっていることであろう。これへ呼び入れてくれぬか」
数正は妻女に言って、それから半三郎に、
「灯りと火桶を」
と、命じていった。
取り残された康長は、真四角に坐ったまま石のように動かない。
「康長、こなた座をはずせ」
「と、仰せられると、父上は、家の子たちもみな連れて・・・・」
「そうじゃ、腹心ふくしん がのうては行った先で働けぬ。あれらはそなたのようにわしに不信は抱いておらぬ」
そこへ、天野あまの また 左衛さえ もん を先登にして渡辺わたなべ 金内きんない佐野さの きん 右衛 もん本田ほんだ しち 兵衛べえ村越むらこし 伝七でんしち中島なかじま さく 左衛ざえ もんばん さん 右衛 もん荒川あらかわ そう 左衛ざえ もん など、数正の腹心たちがひっそりと入って来た。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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