「父上はご存じないのじゃ」 と、また康長が口を開いた。 「お館さまのお許しを受けず、家族づれでこの城を脱出することなど思いもよるまい。城下には石川伯耆
は秀吉に内通しているぞという噂が立ち、われらが外出しても、誰かが必ず後をつけておりまする」 「それが康長は恐ろしいのか」 「父上は恐ろしくござりませぬか。うまく成功すればよい。が、万一途中で捕まるようなことがあったら、それこそひどい辱
かしめを受けましょう。それゆえ、そのとき、相手を納得させ得るだけの、お館さまのお墨付
きがなくてはならぬ。それゆえ、そのご用意が、あるかないかをうかごうているのでござりまする」 数正はこっくりと小さくうなずいて、 「それならばない。あるはずはない」 「えっ?
何と仰せられまする」 「ない! と、申したのじゃ」 「では、やはりお館さまはお許し、ないのでござりまするなあ」 数正は侘しげに笑った。 「そのようなお墨付きなど持っていて、それが秀吉に洩れたらどうなるのじゃ、同じではないか。三河を出てからどこかで斬られる。秀吉どのになあ・・・・」 康長はまた息を詰めて母をふり返った。 末子
の半三郎だけは何か変化を望むもののように眼を輝かして兄と父とを見くらべていたが、妻女はいつかうなだれて、じっと膝に視線を落としていた。 「よいか、もう一度言うぞ。この石川伯耆守数正は、浜松のお館に愛想がつきた。それゆえ、この城を立ち退いて秀吉どのに随身する。何も訊かずにこの父に同意できるかどうか。それに答えてくれればよのじゃ」
「もし、同意できぬと、われらが申し上げましたら何といたしまする」 「斬ってゆく」 数正の声は凍
てつくほど冷たかった。 「大事を打ち明けて、そのままには捨ておけぬ」 「すると父上は、策略のためではのうて、まこと秀吉に尾を振るお心でござりまするか」 「さよう。尾を振るというのは言葉は少々いただきかねるが」 「母上!
何となさりまする。なぜ黙っておられまする。何かご意見がありそうなものじゃ」 すると妻女は、そっと畳に両手をすべらせ、 「どこへなり、お連れなされて下さりませ」 と、細く言った。 「そなたは合点
じゃな」 「はい、私にはこなた様が、悪いことをなさろうとは思われませぬ。ただ途中で難儀がふりかかった節は、その場ですぐさまお斬り捨て下さりませ。辱かしめは受けとうござりませぬ」 するとそのあとから末子の半三郎が肩を怒らしてあとを引き取った。 「そうじゃ。お父上が、悪いことなどするものか。兄上、半三郎もお供をします」 康長は、あわてて弟をさえぎった。 「早まるな半三郎。そのような事で、この城を無事に出られるものかと言っているのじゃ、われら一家は、もはや鵜
の目鷹 の目で見張られている・・・・それをおぬしは知らぬのじゃ」 「康長、お控えなされ」 こんどは妻女が長男をさえぎった。
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