〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/09 (水) 出 奔 (四)

数正の言い方が、あまりに静かだったので、妻女も子供たちも、一瞬言葉の意味をとりかねた様子であった。
「何と申されました? 浜松のお館さまに・・・・何とか仰せられましたなあ」
妻女が長男の顔を見ながら首をかし げて訊き返すと、
「殿に愛想がつきたゆえ、明後日この城を立ち退き、秀吉どのに随身すると申したのだ」
母と子はもう一度、ポカンとした表情で顔を見合った。
いよいよ せぬと言った表情で、次にはホホホ・・・・と妻女の笑いが高くひびいた。
「これは妙なことを聞くものじゃ。のう康長、お父上が、お館さまに愛想をつかしたのじゃそうな」
「父上!」
と、康長はことの重大さに、ようやく気がついて、
「すると、いよいよお館さまのお許しが出たのでござりまするか」
「お館さまのお許しとは何のことじゃ」
「秀吉がふところへ随身と見せて飛び込み、寝首を掻くのでござりまする」
数正はそれを聞くと、しぶい表情で黙りこんだ。
しだいにあたりは暗くなり、部屋いっぱいに、陰気な寒さが張りつめて来るようだった。
「康長」
数正はしばらく、自分の感情を心の中で り分けた。
以前には、たしかに康長と五十歩百歩の数正であった。
家康と秀吉との間に立って、じりじりと追い詰められた感情に意地が加わり、秀吉の内懐うちぶところ に飛び込んで、三河武士の気概のほどを見せてやろうか・・・・
しかしそうした考えはいまでは影響が薄れていた。
そのようなことで問題は一向に解決しない。信長のよって示された戦国終息の理想を、どうして地上に結実させるか・・・・?
それが家康の理想でもあり、秀吉の目的でもあるはずだった。
ところが、それに野心と小我と、側近の無邪気な意地が加わり、放任しておくと再び以前の乱世に逆行しそうな危機を迎えている・・・・
そのために、家康のもとを離れて秀吉のふところに飛び込み、信長から秀吉へ、秀吉から家康へと、自然と花を やす方向へ道をひらくために退散しよう・・・・というのだったが、これは康長に通じることかどうか・・・・?
(康長もまた、家康の名の一字を貰って育った三河者なのだ・・・・)
「康長・・・・」 と、また数正は言った。
「こなたたち、この父を信じて何も訊かずに、進退できぬか」
「というと、わが妻子にも、真意は打ち明けられぬと言われまするか」
「打ち明けずともわかってくれぬかと申しているのじゃ」
康長がぐっと顔をこわばらせて母の方へ向き直った。
「母上、どう思われまする。この分では、お館さまのお許しはなかったもののように重いまするが」
妻女は、射ぬくような眼を良人に据えたまま、これもすぐに返事はしなかった。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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