数正の言い方が、あまりに静かだったので、妻女も子供たちも、一瞬言葉の意味をとりかねた様子であった。 「何と申されました?
浜松のお館さまに・・・・何とか仰せられましたなあ」 妻女が長男の顔を見ながら首を傾
げて訊き返すと、 「殿に愛想がつきたゆえ、明後日この城を立ち退き、秀吉どのに随身すると申したのだ」 母と子はもう一度、ポカンとした表情で顔を見合った。 いよいよ解
せぬと言った表情で、次にはホホホ・・・・と妻女の笑いが高くひびいた。 「これは妙なことを聞くものじゃ。のう康長、お父上が、お館さまに愛想をつかしたのじゃそうな」 「父上!」 と、康長はことの重大さに、ようやく気がついて、 「すると、いよいよお館さまのお許しが出たのでござりまするか」 「お館さまのお許しとは何のことじゃ」 「秀吉がふところへ随身と見せて飛び込み、寝首を掻くのでござりまする」 数正はそれを聞くと、しぶい表情で黙りこんだ。 しだいにあたりは暗くなり、部屋いっぱいに、陰気な寒さが張りつめて来るようだった。 「康長」 数正はしばらく、自分の感情を心の中で選
り分けた。 以前には、たしかに康長と五十歩百歩の数正であった。 家康と秀吉との間に立って、じりじりと追い詰められた感情に意地が加わり、秀吉の内懐
に飛び込んで、三河武士の気概のほどを見せてやろうか・・・・ しかしそうした考えはいまでは影響が薄れていた。 そのようなことで問題は一向に解決しない。信長のよって示された戦国終息の理想を、どうして地上に結実させるか・・・・? それが家康の理想でもあり、秀吉の目的でもあるはずだった。 ところが、それに野心と小我と、側近の無邪気な意地が加わり、放任しておくと再び以前の乱世に逆行しそうな危機を迎えている・・・・ そのために、家康のもとを離れて秀吉のふところに飛び込み、信長から秀吉へ、秀吉から家康へと、自然と花を殖
やす方向へ道をひらくために退散しよう・・・・というのだったが、これは康長に通じることかどうか・・・・? (康長もまた、家康の名の一字を貰って育った三河者なのだ・・・・) 「康長・・・・」
と、また数正は言った。 「こなたたち、この父を信じて何も訊かずに、進退できぬか」 「というと、わが妻子にも、真意は打ち明けられぬと言われまするか」 「打ち明けずともわかってくれぬかと申しているのじゃ」 康長がぐっと顔をこわばらせて母の方へ向き直った。 「母上、どう思われまする。この分では、お館さまのお許しはなかったもののように重いまするが」 妻女は、射ぬくような眼を良人に据えたまま、これもすぐに返事はしなかった。 |