家康はまだ、数正がこれほどの決意をして戻ったものとは思っていまいし、秀吉も、要求した人質の代わりに、数正が岡崎城を出奔
して来るものとは思っていまい。 それだけに、この出奔が成功すれば、敵も味方もあっ! と言おう。 徳川家にとっては一大警鐘
となり、秀吉にとっては、徳川家との開戦は急ぐに当たらぬという自信になってゆくはずだった。 軍法の機密を持って行かれては家康も陣立てを変えねば成らない。といって陣立てを変えたばかりの軍隊は、充分力を出し得ない。 双方の自戒と自信の間隙
が、数正の狙うところであった。 数正はそこで、家康攻めが、どんなに秀吉側の信望と面子
にかかわる戦になるかを説いてゆき、 「── 無駄な戦はなさらずに、朝日姫婚嫁の件をおしすすめなされませ。家康は必ずこれに従いまする」 そう言って、あるときには、自分の脱出も、家康と相談のうえらしく匂わせてゆく決心だった。が、、さて問題は、その出奔が、果たして数正の計算どおりに成功するか否かであった。 岡崎は西三河ながら徳川領の最前線ではなかった。万一に備えて、最前線へは、猛禽中の猛禽どもが眼を光らして見張りについている。 いや、そればかりではなく、数正につけられている寄騎
の中にも、あらぬ風評を信じて、 「── 石川どのを監視せよ」 密かに彼の外出先までつけて来る者がある始末
の昨今だった。それらの者に脱出の途中で斬られるような事があっては、それこそ苦心は水泡に帰してゆく。 数正が浜松から帰った翌日、十一月の二日から、居間に閉じこもって軍法を書きつけだしたのも、実はそうしている間に、脱出に方法を考えようという、もう一つの目的のためでもあった。 二日、三日、四日と数正は自室にこもって、五日になると、ぶらりと城を立ち出て、大給
の松平源次郎 家乗
の陣屋を訪れて戻った。 大給の松平源次郎はまだ幼少だったので、松平五左衛
門 近正
が陣代をしていた。 その近正と会って一刻ばかり茶を喫しながら世間話をして戻って来たのである。 そして、六日になると、城下に棲
む寄騎の杉浦 藤次郎
時勝 を呼んで、わざわざ酒肴
を出させてこう言った。 「杉浦、今月になってめっきり気候が温かくなった。こうした気候変調の時には、とかく妙な流言がはやるものだが、市民の間に、そうした忌
わしい様子はないかの」 「はい、この二、三日の温かさはただの温かさではない。これは戦か、大地震でもあるのではないかと、心配している者がござりまする」 「ふーむ、戦というとやはり秀吉とであろうな。噂のまま申してみよ」 「噂のまま・・・・に、申してもよろしゅうござりますか」 「何の遠慮がいるものか。言うてみよ」 「では申しまする」 若い時勝は方をあげてひと膝すすめ、 「戦になったら、すぐに敵を岡崎へ誘い入れる内応者が出るかも知れぬ・・・と、こう申して騒いでおりまする」 そう言うと、ぐっと下から数正を睨みあげて息をのんだ。 |