〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/07 (月) 女 関 白 (九)

おそらく秀吉に向かって、これほど手痛い言葉を投げつけ得る者はほかにはあるまい。根来衆のうち、愛染院、根来大膳、永福院、和泉坊以下十六人を打ちもらし、家康の浜松へ げ込ませてしまったことは、黒田くろだ かん 兵衛べえ とともに、秀吉の歯がみをして口惜しがったことだったのだ。
寧々がそれを知っているのさえふしぎな気がするのに、そのような戦ぶりは、天下人の戦ぶりではないと、ずけずけと言ってくる。
全く寧々の言うとおりで、これには返す言葉もなかった。
その秀吉の討ちもらした根来衆徒が、ぬけぬけ家康の保護下にあるということが、富山城の佐々さっさ 成政の叛心を、どれほど大きく助長させていることか。
「そうか。天下人の戦は降服させるが目当てであったか」
「それを、攻め滅ぼすぞと見せるゆえ、相手は怖れて徳川どののもとへ駆け込む。駆け込んだ者は助けねばならず・・・・で徳川どのも、内心は苦しかろうが、上様の敵になる。それを見て、またあれこれと心を動かす者も出ましょう。その戦ぶりはもうお改めなされませ。上様らしゅない小ささじゃ」
秀吉は再び盃をとりあげて、フフフ・・・・と笑いながら寧々の前に差し出した。
「寧々・・・・ではない、女関白どの」
「はいはい。まだ何か腑に落ちぬことが」
「こなたのご意見に従うと、わしは佐々成政も、攻め滅ぼさずに、征伐で行かねばならぬこtになりそうじゃの」
「仰せまでもないこと! 関白はもはや天下人でござりまする。天下人が、わが部下を思うままに動かせぬとあっては大きな恥じゃ。そのわが不器量さに腹を立て、大事な部下を攻め殺すなど、理にも道にもかなわぬことにござりまする」
秀吉はきなり、寧々の片手を取って引き寄せた。もういつものおどけた夫婦の顔に返って、その手をうやうやしく額につけておしいただいた。
「これは女関白殿下、あなかしこ、あなかしこ!」
「上様」
「はいはい、何でござりましょう」
「佐々成政は、世に聞こえた一徹者でござりまするそうな」
「仰せのとおりでござりまする」
「その一徹者を、ころりと にのせて見せて下され、さすれば、もろもろの大名たちはむろんのこと、徳川どのの心も解け、朝日どのとて、何で上様をお疑いなどいたしましょう。それが天下人の度量でござりまする」
秀吉は、ふっとおどけた笑顔を硬直させて唇をゆがめた。
怒っているのではなくて、この無礼で勝ち気な妻の心に感動し、あやうく涙ぐみそうになったのだ。
「そうか。征伐というのは、討たぬものか」
「討っては怨みが残りまする。まつろ・・・ わせて、楽しく働かせるが、まことの関白でござりましょう」
「寧々!」
「はい」
「この禿鼠の頭をパチンと一つ叩いてくれぬか」
「なんのもったいない! あの折の、故右府さまのお手紙にも、日本国中、いずくを探そうと、こなた様のようなよい良人はないほどに、悋気をつつしめとござりました。もったいない。もったいない ──」

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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