〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/06 (日) 女 関 白 (七)

「ホホ・・・・出しゃばり悍馬はようできました。しかし、それくらいの悪罵あくば では、わらわは一向にこたえませぬ。それにしても、亡くなられた右府さまは悪口の名人でござりましたなあ」
寧々が笑いながら、侍女の運んで来た銚子ちょうし を取り上げると、
「こなたがしゃく をするまでもない。若い女子どもにさせてやれ」
「そうは参りませぬ。この禿鼠はげねずみ は、出しゃばり悍馬の大切なご亭主じゃほどに」
秀吉は舌打ちして、
「口ではこなたにはかなわぬ。それにしても右府さまは悪い綽名あだな をつけられた。禿鼠とはなあ・・・・」
「いいえ、このくらおうがった綽名はござりませぬ。懐かしさが泉のように湧きますもの」
「寧々!」
「おや、怒られましたか殿下には」
「こなたが、そのような口の利き方をするときは、きっと何か企みのあるときじゃ。従三位北の政所さま、何が不足で毒づくのじゃ」
「ホホ・・・・」
と、寧々は楽しそうに笑ってまた酌をした。
「すぐにそうお気づき下さるので話よい。朝日どのが、なかなかこなたの言うことを聞かぬわけが分りました」
「えっ!? 分ったと!?」
「はい。心を解く鍵だけは見つけました」
「そうか。それはよい。ただの未練ばかりではなかったのか」
「はい、こなた様への不信でござりました」
「わしへの不信・・・・」
「上様、これは大切なことでござりまする。さ、もう一献いっこん すごされて、その不信が解けるかどうかうかがいとうござりまする」
秀吉は小首を傾げて盃をおいた。
「不信が解けるかどうかというと、何かわしが朝日にあかし を立てて見せねばならぬとでも申すのか」
「はい、そのとおりでござります」
「いったい、あやつ、何と申したのだ」
「その前に、わらわからうかがいたいことがござりまする。関白殿下は、家康どのを怖れておわすのではござりませぬか」
「なに・・・・わしが家康を怖れていると!?」
「はい、ほかに殿下が怖れておわすお人はない。が、家康どのばかりは・・・・」
「朝日がそう申したのかッ」
「朝日どのがそう思うほどならば、大名衆の中にもたくさんそう思うお方があろうと、これはわらわの推測でござりまする」
「フーム」
秀吉の顔は急に不快にゆがんでいった。いちばんそれは秀吉の嫌っている言葉であり、また真実に近くもあった。
「そうか、朝日がそのようなことを・・・・」
「もしそう思うているとしたら、嫁ぐ気にはなれますまい。わらわならば断ります」
突然秀吉は大声をあげて笑いながら盃を取り上げた。
「分った!ワッハッハ・・・・それで北の政所さま、この秀吉の背骨が細いなどと言いくさったのか。分った! が、案ずるな。わしは家康を怖れるどころか好きで好きでんまらぬのじゃ。あれはの、わしが目をかけてやれば、日本国の切り廻せる男になる。本人はまだそれに気づかぬかも知れぬがの。それゆえ天下のために目をかけてやろうというのじゃ」
寧々はニコリとしてひと膝すすめた。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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