朝日姫にとって、寧々の言葉は、掴みどころのない夢のような言葉であった。 彼女が良人や周囲の者から聞かされている範囲では、秀吉の邪魔者は家康で、家康一人を除くためには、秀吉はあらゆる智嚢
を傾けているということであった。 それが寧々の言葉によれば全く逆なのである。秀吉の志はすでに海外に向けられていて、日本国でわが代理のつとまる大切な留守居役を探している。 そしてその眼がねにかのうた大人物が家康であり、それならばこそ妹の婿にしたいと考えている・・・・というのだ。 「朝日どの、よいかの、このような事が早く世間へ洩れてゆくと、その上様の留守を狙う曲者が出て来ぬでもない。それゆえこれはまだ当分内密になあ」 朝日はまだキョトンと兄嫁を見つめている。しかし、ふしぎなことに、いままで暗くふさいでいた胸に、すーっと一つの青空の窓があいたような気持ちであった。 (野心のためには肉親を・・・・) そいそう思いつめていた心にポカリと穴があいて来た。 (あの兄ならば、そのくらいのことは考えているのかも知れない・・・・) そういえば、近ごろいっそう
「茶 ──」 にこと寄せて堺衆とひんぱんに会っている。 四国攻め、九州攻めもむろん考慮のうちにあろうが、それが済んでしまったとて、子供のときから勢いよく駆け続けて来た兄の足が停止しそうには思えなかった。 「なあ朝日どの、ここらで気を変えるため、大政所さまのお伴をして、有馬へでも出かける心になりませぬか」 「いいえ、それはなりませぬ」 「はてかたくなな、どうしてであろう」 「上様が、北国攻めに心を砕いておいでなさるとき、そのような事を言い出しては冥加
を知らぬと、大政所さまに叱られまする」 寧々はふっと笑いかけて、あやうくその笑いを押えた。 (これで心は解けだした・・・・) そう思うと、人のよい朝日姫がたまらなく哀れになった。 家康はどのような気性の男なのか? いずれにせよ、これほど正直で好人物では、あざやかに相手を操縦する事など思いもよらず、夫婦の闘いでも、みじめに敗れていきそうだった。 (それがよく分っていながら嫁がせようとする・・・・わらわはずっと悪人じゃ) 「これは心ないことを言いました。許して下され。でも、今の言葉を上様がお聞きなされたら、きっと涙ぐんで喜ばれましょう」 朝日姫はそれには答えず、いつかまた視線を庭の木立に投じて、とぎれだした蝉
の声に聞き入っている表情だった。 雲のゆききが早くなり、あたりは急に暗くなった。 ひと夕立ちやって来る・・・・というよりも、もう山崎街道あたりまで雨になっているのかも知れない。 「これで一雨来ると、せいせいしますなあ」 「ほんに、風が少し冷たくなりました」 「山城
からの嵐気 であろう。そうそう、わらわは縁に、古小布を虫干ししてあった・・・・」 これ以上、説いても今日は無駄と知って、寧々は立ち上がると、そのまま縁に出て、声高
に侍女を呼んだ。 朝日もそれをしおに席を立った。 |