〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/05 (土) 女 関 白 (三)

寧々は、自分が憎くなった。相手に同じ女性としての同情を注ぐよりも、関白秀吉のよい妻であろうとする意識の方がはるかに勝って、ここでは、どうして朝日姫を説き伏せようかとしているのが、自分でハッキリと分るからであった。
(むごい兄嫁・・・・)
と心で詫びて、しかしやはり後へは退けない寧々の気性であった。
世間では、秀吉に関白の宣下があると、寧々を 「女関白 ──」 とすぐに綽名あだな したそうな。誰の前でも秀吉に会えて譲らず、時には、
「── すがき藁の上で祝言したをお忘れになりましたか」
侍女やお伽衆とぎしゅう の前でもハッキリと決めつける。それが巧みなユーモアになっていて、決して秀吉を怒らせない。信長の正室で、眼から鼻へ抜けるようなのう 御前ごぜん が、前田利家の妻の まつ と寧々だけは、女に惜しい生まれつきと口をきわめて褒め千切った才女であった。
それほどの才女だけに、朝日の心のうちなど手に取るように分っている。分っていながら無理にもここでは、良人の意思に従わせようと言うのだから、時々やり切れない気もするはずだ。
「のう湯治がよい!」
寧々はまた、身を乗りだすようにして言った。
「こなた様がご同意ならば、すぐにも上様に頼みましょう。なあ朝日どの」
「おいて下さりませ。わらわはどこへも出とうはござりませぬ」
「はて、それでは体が・・・・」
寧々は相手が賛成しないことなどよく知っていて、話の糸口を見つけようというのであった。
「有馬はここよりずっと涼しい。一日も早う体を治し、元気になったら思うこともしたいことも出て来よう。思うことも言わず、したいこともせぬようでは、こなたの立場はいよいよ苦しくなるばかり。お心のままに・・・・などと言わず、こなた様から上様をおどろかすような事言い出してやるがよい」
「お姉上様」
「はいはい。何であろう」
「わらわは、上様の言うことなど聞かぬつもりでござりまする」
「ではお心のままにと言われたのは?」
「食事を詰め、患うて死ぬ気なのじゃ」
「えっ!?」
と、寧々は大形おおぎょう に声をあげて驚いてみせていった。それもこれも知りすぎるほど知っていながら・・・・
「それはまた大それたこと! そのような事をうっかり口になされまするな。それこそ母上さまが仰天ぎょうてん なさろう。でも、よう打ち明けて下された。それはいったい、何ゆえでござりまする」
「このうえはじ はさらしとうござりませぬ。わらわが死んだと聞かれたら、家康どのもホッとなさろう。そのようなところへ、この年で・・・・いいえ、それも、まこと仕合わせを願うてのことならしらず、わらわを遣わして家康どのに油断させ、その上で滅ぼす所存と分っていながら嫁ぐなど・・・・この朝日にはできませぬ」
「ホホ・・・・」
寧々はおもしろそうに笑っていった。笑いながら、これが一人の女の心からの叫びなのだ・・・・そう思うと、胸の中をえぐられる想いであった。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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