〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/05 (土) 女 関 白 (二)

人を説くにも叱るにも汐時しおどき があった。
その汐時に違うては、かえって反感をそそるだけのこと・・・・と分っていながら、説かずにいられぬ立場の寧々であり、幸運すぎる寧々でもあった。
「── 政所さま、朝日どのは、食を減らして、そのまま日向どのの後追うつもりではござりますまいか。侍女たちの話によれば、ほとんど食事をとりませぬそうな」
寧々の妹で、浅野長政の妻になっているお屋々やや が、そっと耳打ちしてくれたことがある。
お屋々に言われるまでもなく、寧々はその心配を、しゅうとめ の大政所にもよく聞かされていた。
それでわざわざ居間を、大政所と寧々の双方から見張れるよう、同じつぼね の間において、折りあるごとに気を引き立てようと努めているのであった。
しかし寧々も女のことゆえ、自分の嬉しさ、得意さはつつみ切れず、時々ふっと気がつくと、気性に任せて押しつけがましい説得にすぎていることがある。
今も、それに気づいて口をつぐんだ。
朝日は出された茶を取り上げて、ぼんやりと動かぬ庭の青葉に視線を投げていた。
夏痩せ気味のせいもあろう、今まで、年よりずっと若く見えたのが、急にふけて影が淡くなっている。寧々の言葉を、
(また始まった・・・・)
そんな風に、心で聞こうとしていないのがよく分った。
「朝日どの」
「はい」
「こなた様は、考えつめておられますなあ」
「・・・・」
「人間はどうにもならぬ気持ちはあるもの。では、いっそわらわから上様に、こなたの思案を取り次ぎましょうか。わらわはこなたを怒らしてしもうたような」
朝日はまたチラリと視線を寧々に戻して、
「無駄でござりまする」
と、沁み入るように吐息した。
「無駄とは・・・・上様がきき入れぬという意味であろうか」
「はい、上様は、もはや、昔の兄様ではござりませぬ」
寧々はつとめて柔らかく、
「それはのう、何と言うても関白という、重いご身分になられたゆえ」
「それゆえ・・・・何も申しませぬ。お心のままに・・・・でも、病には勝てませぬ」
「ほんに、その体ではどうなるものでもない」
寧々はわざとあらが わずに合い槌打って、
「何よりも健康が第一じゃ。いっそ上様にお願いして、有馬ありま湯治とうじ にでも参りましょうかなあ」
良人の秀吉が、朝日の縁談を急がなくなったのも、この思いがけない妹の傷心しょうしん のため・・・・と、知っているだけに、寧々は改めて考え直さなければならなかった。
彼女の聞いているところでは、家康側には異存はなく、間に立った石川数正から、いつにても迎え取ろうという返事があったのに、朝日姫がこのとおりのゆえ、話の進めようがなくて困っているというのであった。
「そうじゃ湯治がよい! 母上さまもご一緒に三人で有馬へ旅して気を晴らそう。それがよい・・・・」
しかし、朝日は返事をしなかった。そっと茶碗をおいて、また放心したように庭に視線を投げている。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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