秀吉の妻の寧々
は、手ずから義妹の朝日姫に茶をすすめながら、自分で自分の言葉がおかしかった。 盂蘭
盆会 の十六日で、二人して宗易
に茶の作法を習ったあとであった。 佐治日向
の死後、ずっと放心を続けている朝日姫に、寧々はまるで母のような口調で説きつづけているのであった。 どのように悲嘆したとて死んだ者が戻って来るわけではない。ここらで心機一転して、共に関白の妻らしく、妹らしく生きようというのであった。 説いている寧々は今年三十八歳。悄然
として説かれている朝日姫は五つ年上の四十三歳だった。 説きながら寧々はしかし、年齢から来る不自然さはべつに感じていなかった。 十四歳で、二十六歳の秀吉の妻となり、その後ずっと兄嫁として、年上の朝日に対して来ているからであった。 したがっておかしさは彼女自身のうちにあった。 城内では西の丸さまと呼ばれ、良人が内大臣になってからは、正式に北
の政所 とも呼ばれている。それがこの十一日に、秀吉の関白宣下と同時に、従
三位 豊臣吉子と、名も姓も変わってしまった。 考えてみると全く夢のようであった。 十四歳で、清洲の叔母の長屋で祝言したときには、すがき藁
の上に薄べりを敷いた契りであったが、それが今では、この広大な大坂城の西の丸の主になっている。 生前神のように畏敬
していた信長や、信長の妻よりも、彼ら夫婦の方がはるかに位階も上ではないか。 はじめ信長に 「猿」 と呼び捨てられ、そのうち、「禿鼠
」 と呼ばれていた秀吉は関白殿下で、その妻の寧々は従三位北の政所・・・・ 説く方は、いわば世にも稀な幸運の妻であり、説かれている方は不運の極みの妻であった。 それなのに、やはり寧々は説かねばならない。 身勝手ではなくて、このうえ、この哀れな義妹の運命を、不孝の深淵に落ち込ませないための兄嫁のつとめだと思った。 「こなた様が、そのようにふさいでおいやると、上様はむろんのこと、母上さまも患
いつかぬものでもない。それに・・・・」 と言って、寧々は夕立ち気味の庭の空を見やりながら、 「亡くなられた日向どののご遺志にも叛
きましょうでなあ」 朝日は答える代わりに、チラリと寧々を見ただけだった。 「日向どのは、何事も天下のため・・・・そのおつもりで、つらい意地を立てぬからた。ここではその死を無駄にせぬが、いっち大事な女の道であろうぞえ・・・・と、いうと、こなた様はまた泣くかも知れぬ。その心根が分らぬではないけれど、ここは、考え直して貰わねばなりませぬ。上様のお心に叛いては、日向どのも地下でこなたを怨
もうほどに」 そう言って、菓子をすすめて、こんどは寧々は自分で自分がいや
になった。 相手はいぜん寧々の言葉など、心に徹
らぬ気配なのだ。あるいはじっと、死ばかりを見つめているのかも知れない・・・・ (それなのに、わらわとしたことが、言葉も声もはずんでいる・・・・) |