〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/05 (土) 女 関 白 (一)

秀吉の妻の寧々ねね は、手ずから義妹の朝日姫に茶をすすめながら、自分で自分の言葉がおかしかった。
盂蘭うら 盆会ぼんえ の十六日で、二人して宗易そうえき に茶の作法を習ったあとであった。
佐治日向ひゆうが の死後、ずっと放心を続けている朝日姫に、寧々はまるで母のような口調で説きつづけているのであった。
どのように悲嘆したとて死んだ者が戻って来るわけではない。ここらで心機一転して、共に関白の妻らしく、妹らしく生きようというのであった。
説いている寧々は今年三十八歳。悄然しょうぜん として説かれている朝日姫は五つ年上の四十三歳だった。
説きながら寧々はしかし、年齢から来る不自然さはべつに感じていなかった。
十四歳で、二十六歳の秀吉の妻となり、その後ずっと兄嫁として、年上の朝日に対して来ているからであった。
したがっておかしさは彼女自身のうちにあった。
城内では西の丸さまと呼ばれ、良人が内大臣になってからは、正式にきた政所まんどころ とも呼ばれている。それがこの十一日に、秀吉の関白宣下と同時に、じゅう 三位さんみ 豊臣吉子と、名も姓も変わってしまった。
考えてみると全く夢のようであった。
十四歳で、清洲の叔母の長屋で祝言したときには、すがきわら の上に薄べりを敷いた契りであったが、それが今では、この広大な大坂城の西の丸の主になっている。
生前神のように畏敬いけい していた信長や、信長の妻よりも、彼ら夫婦の方がはるかに位階も上ではないか。
はじめ信長に 「猿」 と呼び捨てられ、そのうち、「禿鼠はげねずみ 」 と呼ばれていた秀吉は関白殿下で、その妻の寧々は従三位北の政所・・・・
説く方は、いわば世にも稀な幸運の妻であり、説かれている方は不運の極みの妻であった。
それなのに、やはり寧々は説かねばならない。
身勝手ではなくて、このうえ、この哀れな義妹の運命を、不孝の深淵に落ち込ませないための兄嫁のつとめだと思った。
「こなた様が、そのようにふさいでおいやると、上様はむろんのこと、母上さまもわずら いつかぬものでもない。それに・・・・」
と言って、寧々は夕立ち気味の庭の空を見やりながら、
「亡くなられた日向どののご遺志にもそむ きましょうでなあ」
朝日は答える代わりに、チラリと寧々を見ただけだった。
「日向どのは、何事も天下のため・・・・そのおつもりで、つらい意地を立てぬからた。ここではその死を無駄にせぬが、いっち大事な女の道であろうぞえ・・・・と、いうと、こなた様はまた泣くかも知れぬ。その心根が分らぬではないけれど、ここは、考え直して貰わねばなりませぬ。上様のお心に叛いては、日向どのも地下でこなたをうら もうほどに」
そう言って、菓子をすすめて、こんどは寧々は自分で自分がいや・・ になった。
相手はいぜん寧々の言葉など、心にとお らぬ気配なのだ。あるいはじっと、死ばかりを見つめているのかも知れない・・・・
(それなのに、わらわとしたことが、言葉も声もはずんでいる・・・・)

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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