〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/02 (水) 誤 解 の 海 (四)

「なに、家中の無念さが!?」
家康がびっくりしたように訊き返すと、
「そのとおりにござりまする!」
数正は詰め寄りようにまたひとひざ すすみ出た。
「ここで於義丸さまを送る事の効用の第一は、家中へ無念さをしみわたらせる・・・・その事でござりまする」
「フーム」
「その無念さが、いっそう徳川家の団結を固めるもと とご判断なされませ。ここでは相手の無理をそのまま通させた・・・・無念でならぬと仰せられませ、さすれば作左なども笑いはいたしますまい」
「これ数正・・・・」
こんどは作左衛門があわてて、
「妙なところへ、わしの名を出すな」
「出してもよい!」
数正ははじ きかえすように、
「ここですぐさま於義丸さまをお遣わしなされたとて、むろん秀吉の目的はそれだけでは達されてはおりませぬ。於義丸さまの縁を言い立てて、殿に大坂城へやって来るよう、次の使者が参りましょう。相手のはら は、諸侯列座の大坂城内で、殿に頭を下げさせることにある・・・・よって、養子の儀でことをこじらせては、二度目の使者の口上こうじょう がずっと強くなりましょう」
「数正」
家康はわざと平静をよそおいながら、
「すると、養子の儀を、二つ返事でききいれておくと、大坂へは行かずに済む・・・・こと われると申すのか」
「仰せのとおりにござりまする」
数正はキラキラと双眼にほのお をやどしてうなずいた。
「われらに他意はない。それゆえ於義丸も二つ返事で遣わした。また、於義丸にも逢いたいのだが、何分家中の者が、人質を取られたうえでの呼び出しじゃと言うて納得なっとく せぬ。それゆえ今しばらく、逢いたい思いを押えて時期を見よう・・・・と、ご返事なされば、秀吉とて、 って来いとは言われますまい。これが、於義さま、年内お遣わしの、第二の効用にござりまする」
「なるほど!」
と、また作左衛門が口をはさんだ。
「数正は大した策士じゃ! おぬし、その弁巧で、秀吉まで丸めて来たか」
「なに、秀吉を丸めたと・・・・」
「怒るな。おぬしは徳川家の家臣か、羽柴が家臣かと、みなみなうわさ をしておるわい」
「これは心外な・・・・」
言いかけて、数正はすぐ止めた。作左衛門とは、互いに肚を打ち明けて、双方それぞれの立場で、家康のためにじゅん じようと誓い合った仲であった。
(おそらく作左は、その誓いを家康にも感じさせまいとしているのに違いない・・・・)
「殿!」 と、三たび数正は、家康に向き直った。
「ご決断下されませ。時刻が切迫せっぱく して参りました」
家康はしっかりと火桶ひおけ の中の火箸ひばし をつかんで眼をつむっている。
「これは、ちと、妙な言い方でござりまするが、秀吉は、於義丸さまのお顔を存じておりましょうかなあ」
本多正信が、黙っているのに耐えられぬと言った調子でそっと言った。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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