〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/01 (火) 誤 解 の 海 (二)

「これはご苦労さまでした」
数正が家康に一礼すると、本多正信がまっ先に口を開いた。
「だいたい使者のご意向は分りましたので、ご返事のことをあれこれと相談し、ただいま決定したところでございます」
数正はすぐにはそれにこた えなかった。
一度しまった手拭でもう一度えり もとを拭きながら、
「ひどい冷えゆえ、汗のあとがジクゾクいたしまする」
作左衛門にとも、家康にともなく話しかけてから、
「どう決まりましたので」
家康もまたそれには直接応えずに、
「岡崎へよって来たそうじゃの両人は」
「はい。それゆえあたふたと駆けつけました。それがしが訊き出したところと、ここでの事が相違していては一大事と存じまして」
家康はこくりとうなずき、
「正信、決まったことを数正に言うて遣わせ」
「かしこまりました。とにかく、正月もはや目の前に迫っておりますことゆえ、ここでは直答じきとう を避けまして、来春早々、当方よりご返事申し上げる・・・・として、今日はこ酒宴のうえ引出物ひきでもの を差し出し、一応このまま引き取っていただくことを決めましたところで」
数正はそれを聞くと、うなずく代わりにはげしく首を振っていった。
「それはまず い!」
「と、仰せられると、何か、特別お身さまの耳に入ったことでも・・・・」
「耳へではない。心にひびいた事がある」
数正はぴたりと正信の口を封じておいて、家康に向き直った。
「筑前がご気性は殿もよくご存知でござりましょう」
家康は相手の語気が鋭かったので、そっと脇を向いて、
「知ってはいるが、・・・・しかし、直答は避けてもよかろう」
「直答ではござりませぬ。人質を出せと言われた返事が、今日まで延引えんいん していた・・・・その後でござりまする」
「ふーむ、で、こなたはどうせよと言うのじゃ」
「即刻ご承知のうえ、正月は大坂城で迎えせせられたがよいと存知まする」
「ふーむ」
と言ったが家康は、それなり黙って可も不可も言わなかった。
「数正・・・・」
と、作左衛門が上半身を年寄りじみた曲げ方で、
「四人だけだ。べつに言葉を飾る必要もない。殿は、今ごろになって、於義丸さまに父親の責任を感じておられるらしいのじゃ」
「責任を・・・・?」
「そうじゃ。今まで殿は、於義丸さまにも、その母親にも、親らしいことは何一つしておわさぬ。それゆえ不安になって来たのじゃ。於義さまが大坂へおもむいて、秀吉に心から愛されたら、まことの親の冷たさに気がついて、逆に実父をのろ いだしはすまいかとなあ・・・・そうでござりましょうが殿? そこで、とにかく正月すぎまで、わしもこんなに可愛がっていたのじゃと、お側において思い込ませたい・・・・いわば、薄情さを取りつくろわねば手離せぬ、妙な親のぐちでなあ」
そう言うと、フフフッと肩をゆすって意地悪そうに笑っていった。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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