義経の一行が平泉
へ下るコースはいろいろに伝えられるが、安宅あたか
の関跡せきあと は謡曲や歌舞伎で知られているだけに、動かない印象を一般に与える。 当時の安宅関は、日本海岸の侵蝕しんしょく
で遠く海中に没してしまったようだ。しかし住吉神社の裏手の砂丘には、義経や弁慶、それに富樫とがし
などの銅像が建っている。 「義経記ぎけいき
」 では 「勧進帳」 の舞台は小矢部おやべ
川がわ に子撫こなで
川がわ が合流するあたりの如意にょい
の渡しとなっているが、潮騒の音を聞きながら松原を歩いていると、義経主従がそこに現れても不自然ではない感じになる。 歌舞伎十八番の一つに選ばれた 「勧進帳」
は、能の 「安宅」 を歌舞伎化したもので、 「義経記」 に基づいているようだ。頼朝に疑いを掛けられた義経は、弁慶ら四天王に守られて、山伏姿に身をやつし奥州へ落ちのびる途中、安宅関で関守の富樫左衛門にとがめられる。その危難を弁慶の気転と富樫のはからいでうまく脱するというわけだが、
「義経記」 では安宅関で弁慶が富樫に問い詰められ、東大寺勧進の山伏だと釈明する。そのくだりと如意の渡しで渡し守に見とがめられ、弁慶が義経を打擲ちょうちゃく
する箇所、および直江津の浦で代官に笈おい
の中をたしかめられる部分が、一つになって話が出来上がったのであろう。 それにしても勧進帳の読上げから山伏問答となり、折檻せっかん
を経て富樫のはからい、最後には弁慶の延年えんねん
の舞まい や飛び六方 (法)
による引っ込みとつづく中に、いろいろな見どころがあり、曲調にもすぐれ、みごとな様式美を形づくっている点で、 「勧進帳」 は歌舞伎十八番にあげられるだけの内容と形式を備えている。 松原の一角には歌碑や文学碑も多く、 |