十年ほど前に義経の生脱説話に従って、高館
から宮古を経て三陸沿岸を北上し、三厩みんまや
までたどったことがある。その一、二年後には、今度は松前から江差えさし
を抜け、沙流さる 川がわ
上流の平取びらとり まで行った。そしていたるところに義経説話が根を下おろ
しているのを知った。 土地の人たちは、実際に義経主従がその土地を通ったと、なかば信じているようだったが、宮古市の西北にある黒森山、判官稲荷、横山八幡、田老たろう
町の吉内屋敷跡、譜代ふだい の鵜鳥うのとり
神社、久慈市に残る源道のいわれ、八戸の義経居館、弁慶が一宿したといわれる三戸さんのへ
の法光寺、野辺地のへじ の馬門まかど
温泉に残る滞在説話、三厩の義経神社や馬屋岩とたどってゆくにつれ、私もまた次第にそのとりこになってゆくからふしぎである。 おそらくこの伝承でんしょう
は、奥州浄瑠璃の語り手たちが、御曹司島渡りを語りながら歩んだ跡が、いつしか実在感をもってあとづけられたに違いない。それにしても民衆の判官びいきは際限なくロマンを紡つむ
ぎ出してゆくものだ。 兄の頼朝にうとまれ、腰越状こしごえじょう
を残して京へもどった義経は、土佐坊とさのぼう
昌俊しょうしゅん の追討を受けて、郎党十数名を率い、静しずか
や百合野ゆりの をともなって堀川館を去り、摂津の大物浦だいもつうれ
から船出するが、嵐の為に遭難、百合野は波にさらわれ、義経は住吉の浜に漂着して吉野へ隠れる。 そして静とも吉野山の大峯口で別れ、多武峯とうのみね
、十津川、伊勢、奈良を経て鞍馬山へ戻り、さらに仁和寺にんなじ
の守覚法親王とも相談して、藤原秀衡を頼り奥州へ落ちて行く。 これは 「新・平家物語」 が描く義経逃亡のコースだが、吉野には義経主従にちなむ史蹟が少なくない。 義経の一行が雪の吉野路をたどって吉水院よしみずいん
(吉水神社) へ着いたのは、文治元年十一月十七日だ。 一行は五日間そこにひそんでいたが、頼朝の詮議せんぎ
は厳しく、吉水院を立ち去る。そして大峯口で別れた静は、山道を踏み迷ううちに蔵王堂の僧兵に捕えられ、勝手かつて
神社で法楽を舞わせられる。 花の季節に吉野を訪れたことがあるが、この時の取材は秋のはじめで、色づいた樹々が吉野山の別の表情をしめしていた。私は峰を吹き過ぎる冷たい風に身をすくませながら、蔵王堂から吉水神社、勝手神社、横川覚範の首塚、花矢倉、水分みくまり
神社をまわり、さらに金峰きんぷ
神社から西行庵を訪れた。 金峰神社は美芳野の里と呼ばれた頃からの土地の守り神である。本堂脇の小道を少し下ると、義経の隠れ塔がある。義経主従はこの塔に隠れていたが、追手が迫ると屋根を蹴破って逃げ出したので、蹴抜けの塔とも言われているらしい。 そこからさらに山道を登ると、途中から西行庵へ下る道がある。そのあたりは奥の千本と呼ばれるだけに、花の季節はたとえようもなくすばらしいが、秋が深い季節もまた寂寞せきばく
として赴き深いものがある。 西行庵はその赴きに魅ひ
かれ、奥へ奥へと誘われたあたりにポツンと建っているが、芭蕉ばしょう
も秋と春の二度、ここを訪れている。藤村とうそん
が 「山家集さんかしゅう 」
を抱いて西行庵を訪ねたのは二十二歳の春だった。 吉水神社には 「義経潜居の間」 や 「弁慶思案の間」 と呼ばれる部屋もある。室町むろまち
初期の改築だが、この吉水院は後醍醐天皇の行在所あんざいしょ
がおかれたところでもあり、豊太閤ほうたいこう
の花見の本陣でもあって、いくつにも重なった歴史の厚味を感じさせる。吉野は源平、南北朝の哀史にちなむ史蹟が多く、 「歌書よりも軍書に悲し吉野山」 という支考の句を思いおこした。 佐藤忠信が奮戦した花矢倉は、
「義経千本桜」 で知られる。蔵王堂はあいにく本堂を修理中で、全貌をとらえにくかったが、秋の修学旅行らしい生徒の一団が境内けいだい
をうずめていた。 |