関門大橋を渡って門司側に到ると、古城山のすそに和布刈神社がある。大晦日の夜、この社の神官が衣冠をつけ、鎌と松明
を持ってわかめを刈り、それを神前に捧げる、いわゆる和布刈神事は、ふるく和銅年間からのものだという。この神事は謡曲の 「和布刈」 にも取り入れられている。 鳥居をくぐって岬の方に回ると、寝殿は海峡へ向かって建っている。石段を降りると早鞆の瀬戸の急潮が岸を洗う海面へ出る。そこから真正面に赤間ケ関を望むことが出来るし、火の山の山容も一望の内にとらえられる。 私は
「宮本武蔵」 の取材で、門司側から舟を仕立て、船島 (巌流島) へ渡ったことがあった。 ちょうど昼近い時刻で、潮流が西から東へ流れるのが分かった。 数時間、船島を歩きまわり、巌流の碑や、太刀洗い井戸を確かめ、船を繋留していたもとの場所にもどって驚いた。船がはるか下の方にあるのだ。つまり水位が大きくかわってしまったためだが、その干満の差のはげしさに、壇ノ浦合戦時の潮の流れの、思いの外のきびしさを改めて教えられたものである。 帰路のコースは、比較的短かったが、そろそろ潮の流れが東から西へ変る時刻だと思うと、二重、三重の興味をさそわれた。そのときの印象は今でも忘れられない。 このはげしい潮の流れの中に、身を投じた平家の公卿や女官たちの、浮きつ沈みつする光景は、思うだに悲惨である。高倉帝の后だった女院は長い黒髪に熊手をかけられて水中から引き上げられたというし、重衡の妻は唐櫃とともに身を投げようとして抑えられ、教盛、経盛兄弟は碇を背負って海中に没し、能登守教経は安芸の太郎・次郎を両腕にかい込んで身を投じている。 十二単衣や緋の袴が、丈なす黒髪とともに海中に流れただよい、潮騒の底へと消えて行く光景は、想像を絶するものがある。水軍を誇った平家は、海戦に敗れ、一党は海の藻屑もくず
と消え去ってしまった。 これほどの運命の皮肉はないが、それだけにまた平家の亡霊たちが、水底の都に住み、亡霊となって怨みをとどめるという伝承でんしょう
も、庶民の共感を得たのであろう。 むかしほど平家蟹は取れなくなったようだが、赤間ケ関あたりの海岸で取れる蟹には、戦没した平家一党の亡魂が、苦悶の形相を甲羅に刻みつけたといわれる。たしかにそう思って見ると、人面に似ているが、これも鎮魂の思いを示す庶民の伝承であるにちがいない。 なお蛇足だが、吉川英治は
「新・平家物語」 の取材で、下関から門司あたりをまわったおり、 「西郷札」 でデビューしたばかりの松本清張と会っている。「実直で作風どおりな人であると話しながら思う。ずいぶん忙しい中で書いたらしい。羨むべき境遇と健康と年齢である」
と書いているが、松本清張は当時、朝日新聞西部本社に勤めていた。 生後まもなく壇ノ浦に移り、家の裏手に渦潮の巻くのを見ながら過ごした松本清張には和布刈神事に托した長編推理もあり、吉川英治との出会いに特別の興味をさそわれる。
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