壇ノ浦の海戦は、寿永四年三月二十四日に行われた。決戦は午
ノ刻こく つまり十二時に始まり、申さる
ノ刻、午後四時ごろには運命が決していた。 「平家物語」 によると、源氏の船は三千余艘、平価側は千余艘に唐船少々といったところだが、はたして当時それだけの船を集められたものかどうか。
「新・平家」 で九郎義経どのの水軍のおよそ六、七百隻、平家の全水軍五百数十隻としているのが妥当な数であろう。 壇ノ浦の戦域を一望の下におさめるのは、まず、火の山の展望台まで登ってみることだ。ケーブルを利用してもいいし、車でも展望台の真下まで行くことが出来る。 瀬戸の海が急にすぼまったあたりに、彦島があり、その手前に船島が位置する。その光景を右手に眺め、関門の間をつなぐ大橋に目をとめ、さらに左手に視線を移すと、満珠・千珠の二小島が望まれる。そのあたりはもう長府だ。 火の山を降りたあたりに赤間宮があり、阿弥陀寺陵や七盛塚など平家落日の悲歌を物語る遺跡も多い。火の山と早鞆はやとも
の瀬をこえて向かい合う古城山の麓には、和布刈めかり
神事で有名な和布刈神社がある。ここは平家の一党が最後の決戦を明日に控えて、武運を祈願したゆかりの神社でもある。そこからは安コ幼帝の行在所あんざいしょ
跡と伝えられる柳の御所址も近い。 もともと火の山の名称のおこりは、外敵の来襲に備えてのろしをあげたところから来たという。吉川英治は屋島のダンノ浦と、赤間ヶ関のダンノ浦と、ダンの字の相異如何とみずから問い、屋島のダンは木ヘンの檀、赤間ヶ関のダンは土ヘンの壇だとする使い分けがあるといえ、そのどちらも宛字あてじ
にすぎず、正しくは団ノ浦でなければなるまいと述べていた。 つまり軍団の置かれていた土地なのだ。関門海峡は早くから軍事的な要塞地帯であり、叛乱のたびに防人さきもり
の団が置かれ、火の山に狼火のろし
があげられたのであろうか。 展望台に立って七百メートルほどにくびられた海峡の流れを眺め、古戦場のあとを確かめるうちに、思いは自然に平家の悲歌にもどってゆく。 水軍を誇った平家がなぜ敗れたのか。汐先の利を平家も知らなかったわけではない。外洋から内海へ、つまり西から東へと流れ込む潮流に乗って、いったんは源氏勢を満珠・千珠島近くまで追いつめた平家なのだ。しかし戦機を得ないうちに潮流の向きが変わり、源氏にしてやられたことになっている。 阿波の民部重能しげよし
の裏切りも平家側に痛かったであろうし、梶取りや水夫たちを狙い撃ちした義経流の戦法も、平家側の盲点もうてん
をついたかも知れない。しかし潮流の変化については、源氏以上に深い知識と経験を持っていたはずの平家が、なぜ潮流の変わる時までに源氏を追いつめることが出来なかったのだろう。 土地の郷土史家たちの説では、早鞆の瀬戸の潮の流れは、同時刻、同一場所でも、まったく逆な動きを見せるらしく、西から東へと本流が押し寄せる時でも、田ノ浦あたりの枝潮は、逆方向の渦をまくものらしい。 平家はその微妙な流れを知っていただけに、源氏を深追いすることをためらい、みすみす戦機を逃すことになったのであろうか。 |