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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/03/07 (木) 屋 島 の 古 戦 場 (二)

教経の指揮の許に、兵船を五剣山の西麓の浦に集め、日夜訓練に励んだという船隠しをはじめ、洲崎寺、六万寺、総門跡、佐藤嗣信や菊王丸の墓などが、どの位置にあるかを一応、頭に入れた後、屋島の台地を下りて、車で各所を巡った。
屋島合戦から八百年目にあたる1985年を機に、高松では源平古跡の修理や整備も行われた。通りに 「源平通り」 と名づけられたところもあったと聞く。
それにしても屋島周辺には源平合戦にちなむ史蹟が少なくない。那須与一宗高が、 “おうぎまと ” を射落す時に、馬上から祈ったという祈り岩、義経の弓流し、四国と屋島を結ぶ牟礼むれ の総門跡、義経の身替りとなって戦死した佐藤嗣信と愛馬大夫黒の墓、嗣信の首級をとろうとして佐藤忠信の矢に倒れた教経の童菊王丸の墓など、相引川周辺には古蹟が多い。しかもその碑が、店の軒先にさりげなくあったり、田の畔近くに取り残されたようにポツリとあるのが、かえって興趣ぶかい。
さすがに佐藤嗣信の墓は、平泉以来、影になり日向ひなた になりして義経を助けてきた忠臣のものだけに、後世の人々もその功績をたたえる思いが深いのか、みごとな顕彰碑も立てられている。しかし私は狭い道の一角に立った、大きな自然石に刻んだ総門跡の碑の方が印象的だった。
駒立石、祈り岩と廻っても、那須与一の雄姿は浮かんで来ない。与一宗高は黒馬にまたがって、海中に乗り入れ、はげしく吹きつのる北風にもめげず、ゆりあげ、ゆりすえ、ただよう船の扇をねらって、鏑矢かぶらや をはなつ。その舞台としては、あまりにもあじけないからだ。
しかし、屋島をとりまく相引川の川口に近い辺りまで行くと、海と山とが視野に入って来てホッとする思いだ。「与一鏑をとってつがひ、よつぴいてひやうとはなつ。小兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりすて、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりをいて、ひィふつとぞゐきつたる」 などという 「平家物語」 の一コマがよみがえって来るのだ。
阿部麻鳥は屋島の陣にも姿を現す。しかし嗣信 ( 「新・平家」 では継信 ) の手傷は深く、施す術もない。ただ息を引き取るのを見守るばかりだ。
もともと麻鳥は、義経が摂津の渡辺の陣を船出する時、従軍を願い出たが許されなかった。しかし 「かかるおりに、ともに参らなければ、陣医として、軍にいるかいはありませぬ」 といって志願し、阿波の勝浦まで渡り、一足おくれて駈けつけたのである。
麻鳥は凄愴な激戦のありさまを目撃し、 「なぜ人は、人間同士で、血を流しあわねばならないのか」 という日頃からの疑いを強める。そして 「武門には敵味方もあれ、医には、源氏も平氏もありません。・・・・みなおなじあわれな人びとです」 といって、敵味方の区別なく看護に当る。これはおそらく吉川英治その人の実感であり、同時に十五年戦争をくぐり抜けて来た日本人一般の悲願でもあった。
高松名物は讃岐うどんだ。取材の途中、車を止めてうどん屋により、その店の草案だという梅干入りのうどんを食べた。うどんの真の味は釜あげにかぎるというが結構いける味だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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