屋島は高松の東北方に位置している。一ノ谷合戦で破れた平家は、この屋島に逃れて戦力の立て直しを図った。そして屋島の東の山麓に安徳帝の内裏
を設け、島全体を一大城郭としてぬかりなく防備を固めた。しかし、義経は手兵百五十を率い、風雨を衝つ
いて摂津から阿波へおし渡り、後方を迂回して屋島を襲った。寿永四年二月十八日のことである。 今でこそ屋島は地つづきになっているが、当時は浅い海に隔てられた火山台地の島だった。南北五キロ、東西二キロ、海抜は二百九十余メートルで、頂上は
“メーサ” と呼ばれる火山台地独得の屋根形状をなしている。 一般はケーブルを利用すると便利だが、有料道路を走って山上近くまで車で行くこともできる。 南嶺と北嶺に分かれており、北嶺の遊観亭のあたりから眺めると、対岸の五剣山や瀬戸内の島々を一望することが可能だ。 屋島の東側は切り立った断崖で、相引川や入江をへだてて五剣山と向かい合うことfができるが、談古嶺とその名もふさわしい場所に立って、源平屋島の合戦の模様を様々に思い描くのは、感慨深いものだ。 吉川英治の一行が、この屋島の談古嶺に立った時、すでに日は暮れかけていたようである。
「夕月はいつか五剣山の上に高い。船隠しの崎も、壇ノ浦の浦曲も、夜の底に無風帯の青ぐろさを抱いたまま暮れ沈んでいる」 と書かれている状態だった。それがかえって吉川英治の歴史への郷愁をさそったのであろうか。平家一門の落ち延びた先を、いろいろに思いめぐらし、
“平家村” “平家部落” などの所在についてあれこれと考えている。 屋島寺は鑑真和上がんじんわじょう
の創建と伝えられる。宝物館には土佐光信の 「源平屋島合戦図」 などの国法が収められており、往時を偲ぶ資料も少なくない。境内にある “血の池” は勝利した源氏の将兵が血を洗った所だと聞いた。 しかし一見、奇異に見えたのは境内の一角にある蓑山大明神だ。佐渡の団三郎狸や淡路の芝衛門狸とともに、屋島の太三郎狸は日本三名狸に一つに数えられる。太三郎狸は、四国各地の諸狸の大元締めで、とくに化け方がなかなかなものだという。 |