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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/03/07 (木) 白 峯 陵 の 玉 ず さ (一)

吉川英治が 「新・平家物語」 の取材旅行をしたのは、昭和二十五年十二月中旬のことである。伊勢・志摩から南紀を一巡し、大阪を経て高松へ渡り、船で別府へ抜けるコースだった。高松へ立ち寄ったのは、いうまでもなく屋島の源平古戦場をまわる目的からだ。
しかしもう一つ崇徳すとく 上皇の白峯陵参詣がねらいであったことは 「随筆新平家」 を一読すれば明らかである。宇高連絡船で高松へ着いた一行は市内百間町の 「川六」 旅館へ一泊し、翌朝、主人の案内で白峯陵へ参詣している。
途中、木ノ丸御所址のある鼓ケ岡を望見し、満山の松風を聞きながら長い石段を登り、御陵へえたどりついたらしい。崇徳上皇の四十六年の生涯ほど痛ましいものはない。保元の乱の結果、崇徳上皇方についた頼長は死に、為義は斬られ、為朝は伊豆大島に流され、上皇自身も讃岐に送られた。
そして阿野 (綾) 高遠の手にゆだねられ、長明寺の配所で三年をすごした後、府中の鼓ケ岡で五年余を送り、不遇のまま配所で歿した。長寛ちょうかん 二年八月二十六日のことだ。吉川英治は 「配所の素莚の上に、骨ばかりな肉体を遺して、うつ からお くなりになった」 と述べているが、あまりにも悲惨なその最期を思うと、なんとも切ない気持にかられる。
吉川英治もその切なさに堪えられなかったのか、 「新・平家」 の 「ほうげんの巻」 では、御所水守を勤めていた阿部麻鳥が、新院 (崇徳上皇) をお慕いするあまり、都から配所を訪れ、月の冴えた夜更け横笛を吹くくだりが出てくる。
土地の伝承によると横笛をたずさえて崇徳上皇の幽愁ゆうしゅう をおなぐさめしたのは、僧の蓮誉れんよ ということになっているらしいが、それを麻鳥に仮託した叙述はかえって、作者の配慮というものだろう。
白峯陵は高松市の西方、五色台にある。五色台のいわれは、青・紅・白・黄・黒の五色の峰に分かれた溶岩台地によるが、その一つ白峯の山ふところに崇徳上皇の御陵があるのだ。 「伝記・吉川英治」 執筆の当時は、まだ 「川六」 の先代が元気で、一緒に鼓ケ岡の御所址や白峯陵、白峯寺などをまわった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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