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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/02/28 (木) 歴 史 の 非 情 と 哀 惜

一ノ谷の陣をかためていた平家の大将は、清盛の異母弟に当る薩摩守忠度ただのり だ。熊野育ちの忠度は、武将としてすぐれていただけでなく、藤原ふじわら 俊成しゅんぜい 門下の歌人としても知られていた。 「千載集せんざいしゅう 」 にも忠度の作品はとられている。 「新・平家物語」 では、やんごとなき女性の恋人役をふられているが、それというのも、文武両面の達人だったからであろうか。
忠度は奮戦しながら、残兵を集めて須磨の浦づたいに東へ急いでいた。その後姿を見て駈け寄って来たのは源氏の武者岡部六弥太である。六弥太はよい敵なりとつめ寄ったが、忠度は味方だと偽り、対決を避けようとした。しかし歯を鉄漿かね で染めていることから平家の一党だと見破られ、仕方なく刀を抜いてわたり合ううちに、六弥太の郎党に背後から右腕を斬り落とされ、いさぎよく討たれた。
六弥太は、相手を討ち果たした後、箙に結わえた紙片に、 「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」 という辞世の歌が書きとめられているのを知り、薩摩守忠度だと分かったという。
長田区駒ヶ林町にその腕塚があり、土地の人々から、“腕塚さん” と呼ばれているほかに、野田町には胴塚、明石市には忠度塚と右手塚など計四ヶ所の塚がある。
敦盛塚も須磨浦公園から近い。白馬を駆って海へ乗り入れた敦盛が、熊谷次郎直実に呼び戻されたのも、そのあたりであろう。海岸線は現在より内側を走っていたにちがいない。
3.75メートルの大きな五輪塔の一部は土中に埋まっているようだが、十六歳の若さで直実に討たれた敦盛への哀惜の思いは深く、道行く旅人たちで香華こうげ をたむける者も少なくなかったという。
コの字型の石積みに囲われた石塔は、何かを語りかけたげに見える。哀惜をそそられるのは、私たちが、敦盛を含めて、平家の公達の運命を思い出すからであろうか。そういえば、琵琶塚の経正は、敦盛の兄だった。
その裏山が鉢伏山だ。ロープウエイをあがると、三ノ谷、二ノ谷、一ノ谷と並ぶ景観が眺められる。山の背面をくずして、海を埋め、ポートアイランドが誕生した。神戸開港の基を築いた清盛の夢がこのような形で実を結んでゆくように思われる。
山陽電鉄の須磨寺駅から須磨寺は目と鼻の先だ。宝物殿には敦盛の青葉笛あおばのふえ や着用の鎧兜、境内には敦盛の首塚、首洗池、芝居にちなむ弁慶制札の若木の桜などもある。生田の森から須磨浦へかけての源平争乱の遺跡は歴史の非情と哀惜を語りかけてくる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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