義経は手兵を率いて丹波路を駈けぬけ、三草越えをして平家の陣を背面から襲う。その鵯越えの逆落
としは、あまりにも有名だが、場所は諸説あって定めかねる。 吉川英治も 「新・平家物語」 執筆に当って、鵯越えの場所の決定にいろいろと頭をめぐらし、文献的考察だけでなく、郷土史か家川辺賢武の案内で会下えげ
山やま に立って神戸市街を眺望し、地形を確かめ、通説にとらわれずに、独自の解釈に立ち、話を進めている。 それによると、義経は鵯越えで二手に分け、本隊は夢野、刈藻川筋の敵兵を蹴散らし、真っ直ぐに輪田ノ浜へ突き進み、土肥どひ
実平さねひら らの別働隊が妙法寺を抜け、多井畑から鉄拐山をこえて、一ノ谷へ駈けおりることになる。本隊が一気に輪田ノ浜を目指すのは、その沖合いに安徳帝のお座船が位置していたからだ。 この合理的解釈は、現地を踏査してみなければ出てこない。 「・・・・義経勢が南下して来た道は、現在の鵯越え遊園墓地から、明泉寺、長田を駈け下り、妙法寺川に沿って、戦い戦い、輪田岬の西方の海浜、すなわち駒ヶ林付近へ出て来たものであろう。──
なぜならば、平家方の主将の戦死跡がその線を描いているし、もっと重要なことは、駒ヶ林の浜に平家の軍船が集まっていたことである。安徳天皇もそこの船中におられ、また一ノ谷や生田方面から落ちて来た平家の将士は、すべて、船上へ逃げ移ろうと、そこの一点へ争い集まって来たものと思われるからだ」
( 「新・平家今昔紀行) そしてこれまでの伝承には気の毒な話だが、一ノ谷に平家の本拠があったとか、あるいは一ノ谷の逆落とし説は無理があると述べている。 そこで私もまず会下山から神戸市街を展望し、義経の進撃コースを思い描きながら、神戸西北の山々を車で走りまわり、刈藻川、妙法寺川の周辺から須磨浦界隈を訪ねてみた。 鵯越えというのは、ひよどりしか飛ぶことの出来ない嶮けわ
しい道だったのだろうか。東北の原野で駒を駆り、自在に乗りまわしながら武技を練った義経は、馬の習性や特徴も知悉ちしつ
していたはずである。旧暦の二月七日といえば、もう春先だとはいえ、京を義経軍が進発する時には雪だったという。丹波路にはまだ雪が残っていたに違いないし、一ノ谷の真上から逆落としの従来の説は、確かにいろいろな点から無理が出てくる。 一ノ谷は山陽電鉄の須磨浦公園駅の東方一帯である。公園の東端に近い一角に、
「源平史蹟戦の浜」 と刻まれた石碑が建っている。国道沿いのところで、すぐ分かるが、松籟しょうらい
の音を聞きながら海浜の方角を眺めていると、八百年前の合戦の模様が、つぎつぎと一連の絵物語となって浮かび上がってくる。 |