〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2012/03/27 (水) 生 田 神 社 界 隈

一ノ谷合戦は、寿永じゅえい 三年 (1184) 二月七日である。義経の鵯越ひよどりご え、平家公達きんだち の数々の哀話と、ほとんどの記述が、同工異曲の道筋をたどるものだが、さすが吉川英治はちがっていた。 「新・平家物語」 は、平家側の動きにも光を当てることで、一ノ谷合戦のひろがりを歴史に中でとらえている。
「鵯越え、一ノ谷の戦いは、これまでの古典や物語の全てが、みな一方的な記述の形式で伝えられている事に気がついた。久しい間、たれもその不合理を不合理とも思わずに来たらしい。
要するに、源氏側の陣容とか戦果とか、源氏側から見たことしか書かれていないのである。
平家側は、それらの源氏の勇敢さや作戦の巧さを、華々しく引き立てさせる道具立ての役割にしか使われていないのだ。古典・平家物語においてすらそうである」
という 「筆間茶話」 の中の文章が、作者の意図を明確にしている。
主戦場となったのは、東は生田いくた ノ森から西は一ノ谷、北は鵯越えに及ぶ、八キロほどの山麓部である。しかもこく つまり午前六時に戦いが始まり、 の刻 (御前十時) 頃には勝敗が決していた。このわずか四時間ほどの間に、運命は決し、多くの有為ゆうい な才能もまた失われたのである。
「平家物語」 では源氏側には五万余騎、平家側は十万余騎と書かれているが、実際にはそれほど多くはなかったであろう。 「新・平家物語」 では、平家の総勢はお座船をめぐって海上に残った兵一千名うぃふくめておよそ一万四千騎、源氏方はその何分の一にすぎなかったとしている。
生田の大手口に布陣ふじん したのが新中納言知盛とももり を主将にいただく六千の精鋭で、副将にはほん 三位ざんみ 重衡しげひら がそなえていた。蒲冠者かばのかじゃ 範頼のりより が率いる源氏の主軍は、この生田の木戸に正攻法で当る。阪急三宮駅の北にある生田神社がその戦跡だといわれている。ここは建武けんむ延元えんげん の乱に、楠木正成が戦った遺跡でもある。
吉川英治は、 「新・平家物語」 執筆中の昭和二十九年夏、生田神社にまい っている。そのあたりは、戦災に会い、社殿から往昔の面影をとどめた森まで焼けてしまった。吉川英治は境内を歩き、整備されないままにころがっている石灯籠、巨木の焦げた根株などを目にとめ、戦禍の無惨さをいたいたしく偲んでいる。
その後社殿は朱塗りの色もあざやかに再建されたが、神社周辺の歓楽街の方も、復興し、キャバレーのネオン塔などが眺められるのもむな しい。
境内には梶原かじわら 源太げんた 景季かげすえ が、えびら に梅をさして奮戦したというゆかりの老梅や、武運を祈願した梶原井戸、敦盛あつもり の遺児が亡父の夢を見たと伝えられる敦盛の萩、義経の代参として来社した弁慶ゆかりの竹などもあり、源平合戦にちなむ歴史を物語っている。
現在の滝道筋が、むかしの生田川だが、平家はここに逆茂木さかもぎ を植え、防禦を固めた。東国の武者河原太郎高直と次郎盛直は、この逆茂木を越えようとして真名辺五郎の放った矢に射たれ、相次いで倒れるが、そのほこら は、大丸前の一角から三宮神社の境内に移された。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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