〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/02/27 (水) 実 盛 の 首 洗 い 池

平家の総勢十万といわれるが、 「平家物語」 では七万騎、実際には六、七万といったところだろうか、倶梨伽羅谷に追い落とされて、生き残った者は三千余だったというから、哀れをもよおす。しかし別働隊の通盛の軍三万が残っていたので、陣容を立て直し、加賀の篠原に布陣する。だが勢いに乗った義仲の破竹の進撃には、ひとたまりもなく打ち破られ、平家の軍勢は四散してしまうのだ。
篠原の古戦場は片山津温泉の北方で、柴山潟と片山津の海岸に挟まれた一帯だ。落ち行く兵の間に、一人とどまった武者がいた。赤地錦の直垂ひたたれ萌黄縅もえぎおどし の鎧を着こみ、鍬形打ったる兜をいただき、黄金づくりの太刀を いたこの武者は、義仲勢の一人、手塚太郎光盛とわたりあい、討ち取られたが、あとで首級しるし を洗って斉藤別当実盛であることがわかる。年老いた実盛は、白髪を黒く染めて出陣していたのだ。
その首洗い池は、柴山潟を前にした手塚山の麓にある。
   無残やな 兜の下の きりぎりす
と詠んだ芭蕉の思いがよみがえってくるような所だが、観光客は池のほとりにバスを停め、ぞろぞろと池を一巡し、何ということもない表情で、バスにもどってゆく。その裏山の手塚山にも兜の宮という祠があるが、地名のおこりはいうまでもなく、実盛を討ち取った若武者、手塚太郎にちなむものだ。
そこからほぼ北西一キロの地点に実盛像もある。直線距離にすれば近いのだが、道がなく、迂回してゆかねばならない。道から少し入った一角が広く開かれており、その中央に土盛をし、石で囲った塚がある。これが与謝野晶子が、 「北海が盛たる塚にあらずして木曽の冠者がこぢきつる塚」 と詠んだ実盛塚だ。実盛は義仲にとっては命の恩人でもあったが、それだけにまた哀感もひとしおふかい。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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