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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2012/03/27 (水) 火 牛 の 計 の 古 戦 場

倶梨伽羅峠の古戦場は富山県と石川県の県境にある。昔は石動いするぎ から不動寺前まで車で行き、そこから猿ヶ馬場さるがばんば まで歩いて行った。それから数回、倶梨伽羅峠を訪れているが、そのたびに道が開かれ、交通が便利になった。今では猿ヶ馬場まで一気に車で行くことが出来る。
不動寺はもと長楽寺とよばれた古刹こさつ で、養老二年にバラモン僧善無畏が、不動明王の尊像うぃ安置した事にはじまるという。最盛時は七堂伽藍が並び、十二院ほどの末寺もあって、砺波山の大部分を寺域におさめていたというが、合戦のまきぞえをくって焼失、後に頼朝によって再建された。
維盛の率いる義仲追討軍は総勢十万、それに反して義仲側は数万に過ぎなかったが、包囲してしの奇襲作戦により、追討軍は決定的な打撃をこうむる。不動寺から猿ヶ馬場へかけて、維盛の軍勢が布陣したようだが、とにかく猿ヶ馬場の木立の中は、昔日の面影をとどめている。露出した木の根を踏んで行くと、奥に小さな石のほこら があり、不動尊の石像が安置されていた。芭蕉の 「義仲の寝覚めの山か月かなし」 の句碑も建っている。
猿ヶ馬場へ曲がる手前は広場になっており、その一角に昭和四十九年八月建立された倶梨伽羅源平供養塔がみられる。その広場の南側はふかい谷になっており、地獄谷と呼ばれるが、木曽勢の夜襲によって、追討軍が追い落とされた運命の谷だ。膿川うみかわ の源流でもある。 「親落せば子も落し、兄が落せば弟も落し、主落せば家の子郎党もつづきけり。馬には人、人には馬、落ち重なり」 (平家物語) といった表現を見ると、そのおりの惨状が彷彿ととしてくる。
源平ラインとよばれるドライブ。ウエイを下って行く途中に、矢立山、巴塚、葵塚などがあり、砺波の関跡もたしかめることができる。
義仲が戦勝を祈願した埴生はにう 八幡はちまん は、石動駅から西南へ二キロほど行った所にある。百三段の石段を昇ると、社殿の前へ出る。ここの例祭として知られる宮めぐりは、若い氏子が甲冑かっちゅう を身にまとい、笛や太鼓にあわせて拝殿の広縁を八回まわり、最後に本殿に突入するたいへん勇壮な神事だというが、これも義仲の壮挙にちなむものであろう。義仲が大夫坊覚明に書かせた願文や、義仲の道祖幣、奉納のかぶら矢なども、宝物殿に納められている。
だが燃えさかる松明たいまつ を、二つのつの にしばりつけた数百頭の牛が、山津波のように襲ってくる光景を想像すると、維盛軍が大混乱に陥ったことも理解される。この火牛の計は中国伝来のものだが、富士川では水鳥の羽ばたきにおびやかされ、倶梨伽羅峠では火牛の大軍に悩まされるなど、よくよく平家はついていない。しかもその裏には、凶作による飢饉といったきびしい事態が秘められていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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