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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2012/03/27 (水) 義 仲 挙 兵 の 地

「木曽路はすべて山の中である」 と書いたのは島崎藤村だ。この一句で始まる 「夜明け前」 は、維新前後の話だが、それからさらに七百年ほどさかのぼった時代に、木曾義仲がこの山中で挙兵している。
中山道の歴史は古く、すでに大宝二年 (702)岐蘇きそ の山道が開かれているが、いわゆる木曽路十一宿が整備されるのは、近世に入ってからだ。明治維新前後に、 「木曽路はすべて山の中」 だったとすれば、義仲の旗揚げの頃は、さらに山深い僻地へきち だったに違いない。
義仲が以仁王もちひとおう令旨りょうじ を受けて、打倒平家の旗を挙げるのは治承四年 (1180) 九月のことだ。
新宮十郎行家がこの令旨を運んで来た。義仲は木曽谷を出て、信濃から越後へ勢力圏を広げようとしたが、うまくゆかず、父義賢ゆかりの地である上野こうずけ へ入って、兵をつの った。一方、頼朝は石橋山の合戦で敗北を喫したとはいえ、にごと関東武士団を糾合きゅうごう して、平維盛を総大将とする平家の追討軍を迎え討つまでに成長する。
義仲は頼朝に一歩先んじられた形だが、頼朝との摩擦を極力回避して、二心を持たないあかし として、十一歳になる嫡男の義高を、鎌倉へ人質に差し出したりしている。その義高は、頼朝の娘大姫の婚約者の定められながら、不孝な最期をとげる。
義仲は武蔵国比企郡の大蔵館で生まれたが、父の義賢が甥の悪源太義平に襲われ、やかた とともに討死した後、斉藤実盛のはからいで、乳母の良人に当る木曽の豪族・中原兼遠のもとで育てられた。
兼遠の息子兼光、そてに娘の巴などとともに、山や谷で遊びながら武芸を磨き、木曽の若駒のように成長した。
木曽谷には義仲ゆかりの史蹟が多い。その大部分は宮ノ越から木曽福島の間に点在する。義仲の墓のある木曽福島の興禅寺や宮ノ越の徳音寺、旗上八幡や南宮神社、中原兼遠の菩提寺である林昌寺や、中原館跡、それに元服の松や手習い天神などである。
宮ノ越に近くなると、遠くから源氏の白旗が何本も風になびくのが目に入った。
南宮神社は義仲の産土神うぶすながみ でもあり、尾張一の宮の南宮神社を勧進したものだといわれる。国道から少し上った境内には人影もなく、祭礼ののぼり が二本はためいていた。そこら国道をはさんで反対側の一角が、旗上八幡である。治承四年九月に義仲が挙兵したおり、武運長久を祈願した神社だ。
かつてそのあたりは義仲の館であり、木曽の古道も近くを通っていたようだ。境内には樹齢千年を越すという欅の大木があり、社殿の上をおお っていた。
旗上八幡は段丘のうえにあり、少し先へ行くと切り立った崖にさしかかる。その下を中央線が走り、旧道、木曾川の流れなどを越して、徳音寺の集落が俯瞰ふかん される。
国道をそれて村へ入る手前のあたりで、木曾川はゆるくカーブを描いているが、その淵が巴ヶ淵だ。義仲も巴らとともに、その淵で水遊びをしたのであろう。義仲が愛したもう一人の女性、山吹の名も、山吹山、山吹トンネル、山吹橋などに残っている。
  山吹も巴もいでて田植かな
という許六の句碑も、巴ヶ淵に建っている。
徳音寺は宮ノ越の駅を降りて、旧中山道を越え、寺橋を渡ると自然に寺の前に出る。左手奥の観音堂裏にある一段高い玉垣の囲いの中に、義仲と巴、それに母の小枝の墓が建てられている。庫裡くり の裏には宣公郷土館もあり、関係文書や遺品なども展示されている。
木曽福島は中山道のほぼ中間に位置し、関所が設けられていた。山村代官の屋敷跡などを見るとかつての威容をしのぶことができる。義仲の墓のある興禅寺は、木曽、山村両家の菩提所でもあり、勅使門は室町様式を残す建造物として知られていた。しかし、昭和初期の大火で焼失し、戦後、復元された。以仁王の令旨をもった行家を迎えたところから、勅使門といわれたという。
木曽は義仲のふるさとであり、また藤村の文学の風土でもある。木曽十一宿をたどりながら、歴史や文学の故事名蹟をたずねる旅は、 「送られつ送りつ果ては木曽の秋」 の思いを深めた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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