以仁王
の令旨によって打倒平家への動きは本格的に火をふくが、それをプロモートしたのは七十六歳の高齢になっても、なお鬱勃うつぼつ
たる野心を抱いていた源三位頼政だ。十郎行家も加わっている。いずれも平家に怨を抱き、それぞれに屈折した人生コースを歩んできた人物だ。 この謀反計画は、綿密に仕組まれたためか、いよいよという段階まで気づかれず、さすがの清盛も見逃してしまう。それというのも、その裏に後白河という策謀家がひそんでいたからであろう。 やがて十郎行家は鳥羽天皇の皇女にあたる八条女院の蔵人の資格を得て、諸国遊説の旅に出、頼政は機の熟すのを待って、みずから起爆剤の役割をつとめる。治承四年のことだ。 だが頼政一派の陰謀は未然に通報され、以仁王の御所高倉宮が急襲されたため、以仁王は女装して三井寺へと逃れ、頼政も一族郎党を従えて合流する。しかし、三井寺での討議が長引いて、いざ発進という時には機を逸してしまい、延暦寺の心変わりもあって、南都をさして落ち延びる事になる。 私たちも三条通り高倉の西にある旧高倉宮のあたりからはじまり、三井寺を経て、宇治へと車を走らせ、その落ち行く道をたどってみた。高倉宮の旧址は現在の中京郵便局と平安博物館のあたりだという。 平家の追撃も烈しく、平知盛、重衡の軍は、木幡の山道を抜けて頼政の一行に迫る。頼政らは宇治平等院に入って小休止していたが、やがて宇治橋をはさんで対峙する。しかしこの合戦は半日たたないで終わってしまう。 「新・平家」
に、 「合戦は、半日の間に、終わっていた。/ 宇治川の橋上橋下、平等院附近、そして綺田あたりまでも、午過ぎにはもう嘘みたいな平穏さであった」 と書かれているとおりだ。 平等院の一角
“扇の芝” は、その頼政が自害したと伝えられる場所で、傍らの石碑には 「埋木の花さくこともなかりしに身のなるはてぞかなしかりける」 の辞世が刻まれている。ただし、
「新・平家」 は、この伝承を取らず、以仁王とともに、木津川堤から光明山へ入ってそこで自害して果てたとなっていた。 平等院の塔頭たっちゅう
最勝院には、頼政の供養塔もあり、等身大の宝篋ほうきょう
印塔の苔むした表に、歴史の星霜が影を落としている。なお以仁王は南都に向かう途中、光明山寺の鳥居前のあたりで飛騨守景家の手の者につかまり、首をはねられたとも言われ、山城町に以仁王の墓が現存しているので、吉川英治はこれらの伝承をも勘案しながら、光明山での自害説を打ち出したのであろう。 宇治川は、治承四年の合戦だけでなく、四年後の寿永三年に佐々木高綱と梶原景李が先陣争いをしたところでもあり、中州の橘島たちばなじま
には在郷軍人会の建立した先陣の碑も眺められる。なお塔ノ島にある十三重石塔は公安九年に宇治橋を架け替えた僧叡尊にちなむものだ。 現在の宇治橋は昭和十一年の建造、橋の途中の三の間は、もとは橋姫を祀った所だが、後には茶の湯の水を汲む場所とされた。秀吉は、橋守の通円のここで汲んだ水を伏見城まで届けさせたそうだが、その通円茶屋は今でも橋のたもとに店を張っており、吉川英治の
「宮本武蔵」 の中にも描かれている。 |