清盛は熊野詣の帰りに、巨鯨の群れが潮を吹く光景を眺めるが、太地
あたりは捕鯨で知られている。秦しん
から不老長寿の薬を求めて渡来したという徐福によって、捕鯨の術も伝わったとされているが、どうだろうか。 紀伊本線をさらに西へ行くと紀州田辺に到る。その駅前に薙刀を構えた弁慶の銅像が建っているのも御愛嬌だ。これは弁慶が熊野別当湛増
(蔵) の子だという伝承に基づいている。そのためか田辺には弁慶産湯の井戸とか、腰掛石、弁慶松、湛増屋敷跡などがあり、十月十日には弁慶まつりも催される。 また流鏑馬やぶさめ
や神輿の渡御で有名な闘鶏神社は、別当湛増が、源氏につくか平家に味方するか去就を決するために、紅白の軍鶏七つがいを蹴合わせて占ったところでもある。 水軍を持たなかった源氏が、屋島から壇ノ浦と平家を追いつめて行く裏には、この別当湛増の率いる熊野水軍二万余の動向が秘められていたのである。 弁慶の素性はまちまちで、湛増の子だという他に、別当弁暁の子、熊野の岩田入道寂昌の子などの説もあり、母の胎内に三年いて生まれた時は奥歯まで生え揃っていたなど、異常な出産を伝えるものが少なくないが、これはおそらく、熊野修験者が、好んで語った唱導の一つのパターンが変形して、弁慶誕生説話にまとまり、やがて諸国へ伝播でんぱ
していったものと考えられる。 しかし、東北地方から熊野へ詣でる人たちは田辺まで来ると、山祝いの餅をつき、弁慶松の葉を取って持ち帰る風習が、長く伝わったというから、弁慶と田辺の地縁は切っても切れないものがあるといえよう。 ただし、
「新・平家物語」 では、弁慶は新宮の貧しい鯨取りの子というこしらえだ。幼名は鬼若といい、のちに叡山の怒いか
め坊ぼう となり、義経と出会う経緯は
「火乃国の巻」 にくわしい。 |