〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/04/13 (土) 三 熊 野 詣 で

和歌山県の本宮町にある熊野本宮大社と、熊野川の河口に近い新宮の熊野速玉大社、それに那智山にある熊野那智大社をあわせて熊野三山とよぶ。古来、ここへ参詣する道は、“蟻の熊野詣” と呼ばれるほどに盛んだったらしい。
熊野へのコースは、伊勢から尾鷲を抜け、 峠を越えて南下する道の他に、田辺から本宮へ入る中辺路なかへじ と、串本を迂回する大辺路おおへじ があった。一般にはこの中辺路と大辺路をさして熊野街道と称した。往復およそ百十里、三週間余を費やすのが普通だった。
この地を訪れた法皇や上皇、女院たちの記録も多く、少ない時で三、四十人、時には八百人を越える人数で、熊野詣が行われた。皇族や貴族のなかでの記録保持者は生涯に三十四回詣っている後白河法皇であろう。平清盛も西行も、この道を歩んでいる。
もともと那智滝にまつわる山岳信仰にもとづく修験道の聖地だったし、補陀落ふだらく 浄土に通じる穂陀落信仰ともあわせて、高貴の人々の参詣が少なくなかったのである。
「新・平家物語」 の旅でも、三熊野は欠かせないポイントの一つにあげられる。清盛の運命が開けてゆくのも熊野詣りの途次、阿濃津の海を渡る間に、船におおきなすずき・・・く が、跳り込み、それが吉兆となったとされているし、新宮は源義経の叔父に当る新宮十郎行家 (義経の父義朝の異母弟) の根拠地でもあった。さらに鞍馬を逃れた義経は、一時身を隠していたこともある。
「ほげんの巻」 にすずき・・・く のエピソードが紹介されているが、何か良い事があると清盛は 「そら鱸が跳びこんだ」 と冗談交じりにいったという。若年の頃、熊野への道を伊勢から船で阿濃津を渡って行ったとしているのは、伊勢が平氏発祥の地だからであろう。津市にはその記念碑も建っている。
吉川英治の 「新平家今昔紀行」 も、伊勢から熊野路のコースを取っており、私もかつて 「伝記吉川英治」 取材の際には、同じ道をたどって見た。当時、実際に熊野へ入るには、寝台特急 「紀伊」 を利用するのが便利で、東京を夜 つと、朝早く新宮へ着く、尾鷲あたりで日の出を迎えるのも、すばらしかった。
吉川英治が取材旅行で熊野に足跡を印するのは、昭和二十五年の暮れのことだ。十二月九日に東京を発ち、名古屋で杉本健吉画伯と合流、近鉄で松坂へ、さらに伊勢の外宮、内宮をまわっている。
ここで奏告神楽を奉祀し、賢島経由、佐奈駅から伊勢線に乗り、尾鷲で五丈館へ泊った。当時、伊勢本線は完成していなかったので、矢ノ川峠を越えているが、私が取材で廻った時はmすでに峠の茶屋もなくなり、わずかに礎石のセメントが残っているだけであった。
矢ノ川峠の情景を詠んだ吉川英治の句
   茶売女の乳も涸れがてよ冬の山
が、記憶によみがえる。
新宮では熊野速玉神社、徐福の墓、浮島などを廻り、瀞八丁の勝景を賞し、本宮では、熊野本宮に詣で、車を利用して湯の峰に向かい、宿で猪鍋をつつき、翌日新宮へ引き返し、さらに那智へ入るという強行軍だった模様で、私もこの順に廻って見た。
吉川英治は書いている。
「信仰もだが、進行に伴う行楽の意味も充分にあったのだろう、女院たちも、また源平の武将なども、単独でみな来ている。熊野詣では、或る一時代、貴族や武家の流行でさえあったようだ。そして平忠盛は、熊野別当の息女に通って忠度を生ませ、源為義にも、同じような艶話がある。・・・・煙村の少女おとめ温泉いでゆ湯女ゆな 、物売り女など、かえって、都人のすきごころをうず かせた事でもあろう」 (新平家今昔紀行)
清盛は、五十余名の一行を伴って詣でる途中、江口の里でみお の禅尼と呼ばれているかつての祇園女御ぎおんのにょご と対面するし、九郎義経は十八歳の暮れからまる二年、熊野ですごし、ながく行家の丹鶴原の屋敷にかくまわれていたこしらえだ。そして新宮別当行範から、水軍の秘巻をさずけられる。
熊野からは佐藤春夫も出ている。 「空青し山青し海青し」 とうた った南国の自然を眺めながら、 「新・平家」 にちなむ土地を歩き、そこで様々なイメージをかきたてられるのは楽しいものだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next