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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/03/06 (水) 音 戸 の 瀬 戸 今 昔

厳島神社にはもれまでに何度か詣ったが、いつも人が多くてあまり感興がわかなかった。しかし今度の取材では朝早く宮島へ渡り、開くと同時に詣ったためか、人影はほとんどなく、長さ二六二メートルにも及ぶ朱の回廊は、ひっそりとしていて、初めて見るような印象だった。
水の引いたあとの干潟には、蟹の穴が一面に見える。その小さな穴から泡が立つのが、一定のリズムを持っていていかにも面白い。チロチロと横ばいする蟹の姿にも風情があった。
瀬戸内海はかつては平家の庭のようなものだった。清盛の父・忠盛の所領も西国筋にあったし、清盛の時代にはさらに多くの庄園を西国に持つようになる。清盛は福原の雪の御所にいた頃、毎月のように厳島神社へ通ったという。
厳島神社は平家一門の氏神であり、栄華の象徴でもあった。清盛がせっせと宮島へ通ったのは、信仰の為か、それとも厳島内侍のような愛人に会う為だったのか。
清盛は水路の邪魔になる音戸に、海峡を切り開いた。長寛二年 (1164) 十月には、自ら現地に出張し、陣頭指揮に当ったという。総工費金五貫五百匁、銀十五貫、工事日数二百八十三日、延べ六百万人を使役して、地峡の南門に堰を設け、南北の瀬を両断して音戸の瀬戸が開通したらしい。
今では総延長一一八四メートルの音戸大橋が、本土と倉橋島を結んでいるが、その一角から音戸の瀬戸を眺めるのは感慨深い。丘の上には吉川英治文学碑が建っており、何も刻まれていない丸い石と、富士形の石が二基並んでいるが、いずれも広島県二河峡の自然石だという。
富士形の石に吉川英治の字で、 「君よ、今昔の感 如何」 と刻まれている。往昔、音戸の瀬戸を開鑿して、厳島へ通った清盛のことを思うと、たしかに今昔に感がふかまる。
音戸大橋の倉橋島側のたもとに、清盛像があり、その石垣の裾には波に洗われているが、これは瀬戸の住民が清盛の功績をたたえて建てた塚を、小早川隆景が大正十年に改造し、宝篋印塔を建てたといわれる。
吉川英治にとって、宮島は忘れられない既遊の地でもある。最初に訪れたのは昭和十二年、文子夫人と宮島から岩国をまわったおり、厳島神社に参詣し、岩惣という旅館に滞在している。一週間ほどだったが、吉川英治にとっては記憶に残る旅であり、 「随筆新平家」 の言葉を借りれば、この滞在の間に、 「長男のH (英明氏) の生まれる素因が生じたわけだった」 そうである。
それから十数年を経て、昭和二十六年夏に、ふたたび宮島を訪れている。これは 「新・平家物語」 執筆中のことで、たまたまお給仕に出た女中頭のお徳さんが、その当時を覚えており、いろいろと昔話をしたことで、二重に興をおぼえたらしい。
私も 「伝記吉川英治」 執筆のおり、宮島へ渡り、岩惣で昼食をとりながら、宿の主人などから話を聞いたものだ。それだけに 「君よ 今昔の感 如何」 の文学碑は、興味深げに読まれる。
厳島神社の鏡ヶ池の康頼卒塔婆石、宝物館の平家納経、清盛神社や経ノ尾の清盛塚などを見ることができるが、なかでも経ノ尾の宝篋印塔は、ものわびた感じがある。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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