〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/03/04 (月) 福 原 界 隈

平清盛が福原に新しい都を建設しようとしたには、宮廷とは社寺勢力や藤原旧体制との関係を断ち切りたいと考えたからだ。対宋貿易の拠点としても兵庫福原は地の利を得ていた。
かねて福原の地に別荘を持っていた清盛は、晩年のほとんどをこの地で過ごした。雪の御所である。京都には長男の重盛や三男の宗盛をおいて政務を司さどらせ特別な場合には清盛みずから出向いているが、それでも一週間以内に福原へ戻っている。
その雪の御所は、天王川と石井川が合流する兵庫区平野の湊山小学校附近だとされる。湊山小学校の校庭に立つ旧石碑は、その記念だ。そこからは当時、大輪田の泊が見下ろせたにちがいない。
大輪田の泊は、瀬戸内五泊に一つに数えられている。行基が開いたと伝えられるこの港は長らく放置されて、荒れ果てていたようだが、清盛が二度にわたって改修し、宋からの貿易船を迎えられるよにした。
工事は難航し、作事奉行の阿波重能の子・松王丸が人柱に立ったともいわれるが、経ヶ島の伝承に従えば、一切経の経文を刻んだ石で築いたというほうが、清盛らしい。沈もうとする夕陽を扇でさし招いたという話も、清盛の栄華ぶりを象徴するエピソードとしてよく語られるが、夜を日についで工事を促進したおりの、清盛の思いを現すとみたほうが、話に味を添える。そういえば、太陽を招く挿話は、音戸の瀬戸の工事に際しても伝えられた。
大輪田の泊は和田岬のつけ根あたりにあたる。人工島をつくるというのが経カヶ島建設のおこりだ。
吉川英治は書いている。
「・・・・清盛は神戸の恩人と云ってよいという。清盛が手がけた経ヶ島から旧兵庫が生まれ、彼の別荘であり政庁であった雪見ノ御所から、山地や田園が都会化したのである。それは清盛の太政大臣任官の平家全盛期十余年間に顕著だった事蹟であるが、もっと若い頃から、清盛と神戸とは、非常な親しみがあったといえよう」 ( 「随筆新平家」 )
現代の神戸には、かつての福原の都の跡をしのぶものは意外にとぼしい。雪の御所跡に立っても、平家一門が軒をつらねていた栄華の夢は想像さてない。わずかに兵庫区逆瀬川町の一角に立つ清盛塚の十三重石塔が盛時を物語るようだ。しかしこの清盛塚も鎌倉時代に執権北条貞時が、諸国廻遊のおり清盛の霊を弔って建立いたものだという。
その隣にある琵琶塚は、一ノ谷の合戦で没した平経正が愛用した琵琶 “青山” を埋めたというが、もともとその地にあった前方後円墳の形からおこったのが真相らしい。人柱に立った松王丸にちなむ築島寺も近い。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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