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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/03/03 (日) 鞍 馬 の 木 ノ 根 道

鞍馬は義経の伝説の地でもある。奥の院へ通う木ノ根道には、義経の背比べ石とか息つぎの水などと呼ばれる伝承が残っている。
数え年十一歳で鞍馬へ入った義経は、父義朝の祈りの師でもあった東光坊阿闍梨について学び、夜は僧正ガ谷の大天狗から武芸を習ったという。
その真偽はともかく、鞍馬へ行くと、伝説が生きている感じがする。門前町の急坂をのぼると、朱塗りの仁王門がせまる。そこから鞍馬寺の九十九つづら おり の道が始まるわけだが、一般の人々は拝観料を納めてお寺の経営するケーブルに乗り、多宝塔へ行き着く。
老杉の間の参道をまわると、やがて石段にぶつかり、そこを昇ると朱に塗られた本殿金堂だ。その先にさらに奥の院につながる山道がのびている。僧正ガ谷へ武芸の修行に通った時、義経がのどをうるおしたという息つぎの水、奥州平泉へ去る際に、なごりをおしんで背比べしたという背比べ石、大天狗が腰をおろしたという大杉にちなむ大杉権現など、義経公ゆかりの名跡を眺めながら樹齢百年のを経た杉や桧の根を張った木ノ根道を歩いていると、牛若丸が立ち現れてきそうな思いにとらえられる。
秋の大祭といえば十月二十二日の鞍馬の火祭りだが、初夏の行事となると、六月二十二日の竹伐り会であろう。私が鞍馬を訪れたのはその竹伐り会の終わった数日後のことだった。 「新・平家物語」 では、この竹伐り会の夜、遮那王の鞍馬脱出が敢行されることになっている。私は 「みちのくの巻」 の、そのくだりを思い出しながら、参道の小暗い道を歩いた。
なお五条橋での弁慶との出会いは 「新平家物語」 にはなく、被衣かずき を被き、白拍子の家の女童に扮した牛若が、女衒ぜげん の朽縄に見とがめられ、斬って捨てる話になっている。 「昔噺五条の橋」 の一節だ。知られた伝説と史実とのかねあいはなかなかむずかしい。たとえば一五七一年十月六日附のガスパル・ビレラからポルトガル国アビスの僧院へ贈った書翰しょかん によると、牛若丸が弁慶にとりおさえられたことになっており、なんとも返答に窮する。
一方、平家一門の権勢の陰に、泣いた女性も少なくなかった。清盛の愛を受けた祗王とその妹祗女、母刀自、あるいは祗王のあとを襲った仏御前などの哀話は、それを象徴する。
白拍子の祗王は、清盛の寵愛を受け、一家は富み栄え、なかにはその栄誉にあやかろうとして、祗一・祗二などと名を改める女性も少なくなかったという。一身に愛を集めたようなその祗王が、仏御前の出現で、清盛からうとまれ、失火へ帰され、あまつさえ仏御前をなぐさめるために今様などをやるよう強請される。そこで母や妹とともに出家し、仏御前までそれに加わって、念仏三昧の境に入ったというのだが、はたして清盛は、それほどデリカシイに欠けていた人物だったのか。
十訓抄じっきんしょう 」 などが伝える清盛像は、きわめて人間味に富んでいるし、 「新・平家物語」 の清盛もまた多情ではあっても滋味ゆたかな人物だ。
しかし、「平家物語」 が伝える祗王。祗女・仏御前の哀話は、ことのほか清盛にきびしい。洛西嵯峨の祗王寺の瀟洒しょうしゃ な庵室を訪れ、そこに祀られた祗王らの木像をほの明りの内に拝し、四基の墓にぬかずくうちに、文学の与える力とでもいったものを改めて感じた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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