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── 新 ・ 平 家 物 語 の 旅 ──
 

2013/02/27 (水) 祗 園 女 御 ゆ か り の 史 蹟

「新・平家物語」 では、清盛は祗園女御と白河上皇の間に生まれたという設定になっているが、この落胤説らくいんせつ は古くからあり、 「平家物語」 などでは、はっきりと、落し胤としている。しかしそれにしては忠盛の年齢がいささか若すぎる嫌いがある。
正盛、忠盛の父子が白河院におおいに忠勤を励んでいた頃の話だが、忠盛が院のお供をして祗園女御の館の辺りまで来ると、闇の中に怪しげな光をもつ化け物が現れた。院の仰せで忠盛が取り押さえてみると、光る化け物というのは土器にともした灯火で、梅雨どきの雨除けに藁帽子をかぶった堂守が、灯籠に火を入れまわっていたのだとわかった。
これで忠盛はおおいに面目をほどこし、その勇敢さを讃えられたわけだが、それにちなむ石灯籠が、現在でも祗園の八坂神社のかたわれに、忠盛灯籠と呼ばれて伝えられているのは興味をひく。
祗園女御塚といわれる塚が、同じく祗園社の東南、円山公園の一隅に現存している。野外音楽堂の近くだ。小高くなった塚の上に、昔は素朴な木の塔婆が立ち、雑草におおわれていたが、その後、整備され、石の供養塔に改まった。
長く雑草の茂るままに放置されていたのは、触れるとたたりがあると言い伝えれていたことにもよるが、もとの方がかえって歴史の星霜せいそう を感じさせて、趣があった。
塚のかたわらには阿弥陀堂も建っており、その小さな堂宇の軒に下がった提灯は、平家の赤い旗印にふさわしいように思われてならなかった。
清盛の生母については祗園女御説のほかに、その妹だとする説もある。これは滋賀県の胡宮神社に伝承されている 「仏舎利相承系図」 にもとづくもので、それによると白河院の寵愛を受け、忠盛に下されて清盛を生んだのは祗園女御の妹だとされている。その妹が清盛が三歳のときに亡くなり、祗園女御が猶子ゆうし としていつくしんだという説である。だがいずれにせよ、清盛の御落胤説は動かない。
白河院の祗園女御への傾倒ぶりは一通りではなく、女御もまた七間四方の御堂を建てて、法皇の長寿延命を祈ったという。法皇は崩御される際に、宋国の育王山や雁塔山などの寺院から請い受けた二千粒の仏舎利を、女御へ形見として残されたと伝えられるほどで、この二人の愛の模様がそのことからもいかがわれる。
白河法皇が離宮に使っていた白河殿は、岡崎の白河のほとり、法勝寺ほっしょうじ 町一帯を占めていたらしく、現在は法勝寺町のバス停に近い屋敷の邸前の植込みに、 「白河院址」 の碑が建っており、往時を物語る。これはもと藤原良房の別荘だったものを、師実の代に献上し、やがて法勝寺となったが、火災等のために塔堂は焼失し、現在では地名を残すのみだ。
ついでに言えば、尊勝、最勝、円勝、延勝、成勝寺などと並んで、法勝寺は六勝寺の一つに数えられ、鹿ヶ谷ししがたに 事件の俊寛にちなむ寺でもある。
六波羅邸の門を移したといわれる建仁寺の勅使門、小松内大臣と呼ばれた重盛の館のあった小松谷の正林寺、保元の乱のときに崇徳上皇が、平治の乱のときには後白河上皇が避難した仁和寺など、歴史にちなむ名刹めいさつ や古跡蹟はまだまだ京の周辺に少なくない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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