清盛の別邸だった西八条の邸跡には、清盛が熊野権現を勧進した若一
王子の社があり、清盛の手植えと伝えられる楠の大木が、大きく葉を茂らせている。清盛が住んでいた頃は、よもぎが邸内のそこかしこに植えられていたそうだが、現在では面目を一新している。 三十三間堂は後白河法皇の発願による寺だが、財政面を担当したのは清盛であり、院の恩顧にむくいるためのものとはいえ、同時に平家の繁栄の象徴でもある。父の忠盛の代にも鳥羽上皇のために同規模の得長寿院を造営したことがあり、清盛父子の財力がうかがわれる。 得長寿院は現存していないが、三十三間堂は焼失した後、源頼朝によって再建され、そのおり得長寿院をも合併したといわれている。三十三間というのは長さではなく、本堂の柱の間が三十三あるという意味だ。三メートル余の本尊を中央に、左右に五十体ずつ十段の十一面千手観音が並んでいる姿は、荘厳というはかはない。清盛父子はそれぞれ千体の観音像を建立することで、政界進出のきっかけをつくり、一門の隆盛をもたらしたのだ。 有名な三十三間堂の通し矢は、堂の西側の広縁で催される。北端に坐って南端の的へ矢を射かけ、的中した矢数によって記録を競い合う競技であり、紀州藩士・和佐大八の八千百三十三本が最高の記録とされている。 もともとこの三十三間堂は後白河法皇の法住寺殿の一角に建てられたもので、帝を葬った法住寺陵も近い。道を隔てた東側の一角だ。 かつてこの辺りには、東西四百メートル、南北六百メートルにわたる大きな離宮があり、法住寺殿とよばれ、三十三間堂のほかに仏堂や舎殿八十棟を越えたといわれる。しかし、寿永二年に木曾義仲によって火をかけられ、ほとんど焼失した。 |