平家一門の居宅は京都の六波羅に集中していた。六波羅は鴨川の東で、五条から七条におよび、祖父正盛が館を構えた頃は方一町
(約1ヘクタール) にすぎなかったが、清盛が権勢をきわめるようになると、二十倍以上の規模に広がり、一門の郎党が五千余の家屋敷を構えたと言われている。 「新・平家物語」
では、父の代まで都も場末の今出川の荒屋敷に十年余りも住みふるしていたことになっているが、それはともかく、祖父が邸宅を構えた頃は、まだ死体を遺棄
する鳥辺野とりべの の一角だったようだ。しかし一門の繁栄につれて、鳥辺野は東へ移っていったものらしい。 もともと六原とは諸霊の集まる土地の意味だが、村上天皇の頃、洛中に疫病が流行したとき、それを鎮めるため空也上人が十一面観音像を刻み、堂を建立してそこに納めた。空也の死後、弟子たちが六波羅蜜を修したところから、その寺の名を六波羅蜜寺と改め、六原を六波羅というようになったと言われている。 平家一門の栄華のあとは、六原周辺を歩いていてもほとんどしのぶことが出来ない。観光都市京都とは無縁の庶民町であり、それがかえって歴史の旅情をいざなう。六波羅蜜寺も街の中の一宇にすぎない。境内に入ると、本堂の横に清盛の供養塚があり、そのさりげないたたずまいに哀感をそそられる。 この六波羅蜜寺の宝物庫には、有名な空也上人の立像もある。かせ杖をついた上人の口から、六体の化仏が吐き出されているのは、いかにも印象的だ。これは南無阿弥陀仏の六字の名号をあらわす。 運慶、湛慶などの鎌倉期の仏像もあるが、
「新・平家物語」 にちなんだ宝物は、何といっても端座した木像の清盛像だ。巻物を手にして、それを開いているが、視線は別の方を向いており、人間味にあふれている。説明してくれた人が、仲代達矢に似ていると言ったが、そう思ってみるとそっくりなのは愉快だった。つまりこの清盛像は人間の情感をたっぷりとあらわしているのである。 六波羅蜜寺を出て松原通を東へ少し行くと、迎えの鐘で有名な珍皇寺に出る。六道の辻も近いが、それらのことを思いあわせると、六原のいわれも肯うなず
けるのだ。 |