〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/14 (火) 江 戸 の 本 心 (七)

家康の眼も爛々らんらん と輝きわたって来たが、一座の眼も明らかに火が いた。
(いつか一度は天下のことを ──)
それはみなの心にとうから芽ぐんでいることながら、まだ家康の口からそれを聞かされたことはなかった。
それを家康は、さんざん逡巡したあとでとうとう口に出したのだ。この場合の逡巡は、事の重大さを倍加させるに役立つだけで、問い詰められて心にもないことを言う場合とは全然逆の効果があった。
「みなも知ってのとおり、これはわれから進んでくわだ てたことではない。みな関白の言われるままにしたまでじゃ」
「いかにも」 と、鳥居元忠が相槌あいづち 打った。
「こうさせたは、たしかに関白でござる」
「さればこそ、佐渡は神仏のお告げと申したのじゃが、実は、それ以前に、家康自身こうなることをひそかに心にねが っていたのじゃ」
「ほう・・・・」 と酒井忠次だった。
「われらや、康政、直政、忠勝などは、みな不満で怒っていたのにのう」
「そのわけを言い聞かそう。よいか、これは関白の人柄から来ることじゃが・・・・」
家康は、もう一度一座を見廻して、それからかたわらの鳥居新太郎に眼くばせした。
新太郎は心得て立ち上がって、広間の廊下へ見張りについた。
「関白は天下を統一すると、きっと朝鮮へ兵をくり出す・・・・そうせねばおれぬお方と睨んだからじゃ」
「なるほど」
「しかし、朝鮮に兵を出せば、どうして殿は、東へ移ると利益なのでござりまする」
高力清長の質問は、いつも言葉少なであったがまと を衝く。みんなは、全身を耳にした。
「わしの調べた範囲では、朝鮮のうしろには大明国だいみんこく がついている。この戦、関白の思うように勝てはせぬ。この事は堺の長老どもも、みな案じているところじゃ」
「しかし、それらの意見を訊くお方ではない。いや、うかつに諌言すれば、かえって意地になられるお方じゃ。そう言うてははばか りあるが、下賎げせん の出ゆえひが みがきびしい。近く利休居士とも争おう・・・・そんな情報すら入っているほどじゃ・・・・よいかの、その朝鮮の戦に、われらがもし西にあったら、いや でも、真っ先駆けねばなるまい・・・・
家康は少し離れている松平康元やすもと を手招きしながら声をおとした。
「ここが大切なところじゃぞ。関白が外国とつくに に敗れ去り、わしが先陣してかの地にかばね をさらしていったら、いったい誰が天下を治めてゆくぞ。それこそ再び国内は麻のごとき乱れになろう。それゆえわしは喜んで東に避けた。江戸の地が荒れ果てているのをむしろ神意と感謝しておる。ここへ町を造り、城造りせねばならぬ。小田原の残党狩をして一揆の起こらぬようにせねばならぬ。忙しい! 手は離せぬ・・・・そのように関白が運んでくれたというのは何という仕合わせであろうか。関白みずから、朝鮮出兵に全力を尽くせと、わしに い得ぬ立場を作って下された・・・・よいか、そうした今度の江戸入りゆえ、城構えはいちばん後廻しじゃぞ。まだできぬ、まだできぬでいかねばならぬ。策ではない! 関白の選んでくれたわしの運じゃ」
広い天井てんじょう をかすかに鼠がわたっている。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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