おそらく家康は、この事だけは胸に包んでおきたかったに違いない。 「──
天下を監視する」 そう言うだけで、秀吉への反感を押えきれたら、この事はうかつに口外してよいことではなかった。もしそれが、誰かの口の端から秀吉の耳に入ったら、秀吉と家康の間には取り返しのつかないヒビが入ろう。 しかし、重臣たちにせがまれて、ついに口外してしまった以上、充分これは活用すべきことであった。 彼は静まり返った一座を睨むように見廻して、また言葉を続けていった。 「よいかの、絵図面にもあるとおり、江戸の地は荒れ果てた僻地
じゃが、しかし、その位置も、地形も、努力次第で無限に開ける沃野
の中心をなしている」 言われてみんなの眼は再び、海に迫った江戸城とその近辺に吸いつけられた。 「何よりもこの海にそそぐ数本の河川がもうを言おう。下野
、上野
、武蔵から、下総
、上総
と川で結んで富は自在に移動し得る。この湾曲した海辺を埋め立てて、縦横に掘り割したら、充分、大坂に匹敵する城下町になし得るのだ。そのうえ西とはこの箱根の嶮でさえぎられ、海は世界へ続いている。しかし・・・・」 と言って、まや眼をあげて、 「問題は、そうした希望を、みなの希望として、上下あげて一つに結束し得るかどうかの問題なのじゃ」 「それは、改めて聞くまでもないこと」 忠世が言うと、 「そうじゃ、改めておかしなことじゃ」 「岡崎以来のご譜代ではござりませぬか。殿の本心をうけたまわったうえは、誰が尻込みなど」 忠次と忠勝が声をそろえて胸をそらした。 「では、この家康も、二十年若返り、もう一度三方
ヶ原
に馳せ向かったあの気負いで天下への道をめざし、関白の結い上げた鉄の環の中に乗り込もう」 「みなみなその気で続きまする」 「と、口では言うがの。辛苦
は並み並みならぬものがあるぞ」 「それは、むろん覚悟のうえじゃ。のう方々
」 「いかにも、天下に近づく東行
ならばの」 「よし、それを聞いて安堵した。よいか、家康が配置に誰も苦情は許さぬぞ」 「仰せまでもないこと!」 「里見の押さえ、佐竹の押さえ、箱根の押さえ、甲斐の押さえ、北への押さえ、信濃への押さえ、それぞれ家康が心のままに執り行う。この際なれば不平は許さぬ」 「天下をめざす道として、もう一度、殿が駿府へ人質だったころの苦難を思い返そうぞ」 鳥居元忠がすかさず言ってのけたので、みなは
「そうじゃ」 「そうじゃ」 と、子供のように応じていった。 家康は手を叩いて新太郎を呼んだ。 「もうよい。明日は門出
、一献
汲もうぞ」 そう命じてゆくうちに不意に胸が熱くなった。 (言わいでものことを言うたが、それも無駄ではなかったような・・・・) そうした安堵と無邪気に近い家臣の心がたまらなくなって来た。 (秀吉に、こうした家臣が幾人あろうか?) 褒美で釣れぬこの宝が・・・・思うと、家康もまた彼ら以上にたかぶりかける。家康は、あわてて顔をそらしながら、声を立てて涙を笑いにまぎらした。 |