〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/15 (水) 江 戸 の 本 心 (八)

おそらく家康は、この事だけは胸に包んでおきたかったに違いない。
「── 天下を監視する」
そう言うだけで、秀吉への反感を押えきれたら、この事はうかつに口外してよいことではなかった。もしそれが、誰かの口の端から秀吉の耳に入ったら、秀吉と家康の間には取り返しのつかないヒビが入ろう。
しかし、重臣たちにせがまれて、ついに口外してしまった以上、充分これは活用すべきことであった。
彼は静まり返った一座を睨むように見廻して、また言葉を続けていった。
「よいかの、絵図面にもあるとおり、江戸の地は荒れ果てた僻地へきち じゃが、しかし、その位置も、地形も、努力次第で無限に開ける沃野よくや の中心をなしている」
言われてみんなの眼は再び、海に迫った江戸城とその近辺に吸いつけられた。
「何よりもこの海にそそぐ数本の河川がもうを言おう。下野しもつけ上野こうずけ 、武蔵から、下総しもふさ上総かずさ と川で結んで富は自在に移動し得る。この湾曲した海辺を埋め立てて、縦横に掘り割したら、充分、大坂に匹敵する城下町になし得るのだ。そのうえ西とはこの箱根の嶮でさえぎられ、海は世界へ続いている。しかし・・・・」
と言って、まや眼をあげて、
「問題は、そうした希望を、みなの希望として、上下あげて一つに結束し得るかどうかの問題なのじゃ」
「それは、改めて聞くまでもないこと」
忠世が言うと、
「そうじゃ、改めておかしなことじゃ」
「岡崎以来のご譜代ではござりませぬか。殿の本心をうけたまわったうえは、誰が尻込みなど」
忠次と忠勝が声をそろえて胸をそらした。
「では、この家康も、二十年若返り、もう一度三方みかたはら に馳せ向かったあの気負いで天下への道をめざし、関白の結い上げた鉄の環の中に乗り込もう」
「みなみなその気で続きまする」
「と、口では言うがの。辛苦しんく は並み並みならぬものがあるぞ」
「それは、むろん覚悟のうえじゃ。のう方々かたがた
「いかにも、天下に近づく東行あずまこう ならばの」
「よし、それを聞いて安堵した。よいか、家康が配置に誰も苦情は許さぬぞ」
「仰せまでもないこと!」
「里見の押さえ、佐竹の押さえ、箱根の押さえ、甲斐の押さえ、北への押さえ、信濃への押さえ、それぞれ家康が心のままに執り行う。この際なれば不平は許さぬ」
「天下をめざす道として、もう一度、殿が駿府へ人質だったころの苦難を思い返そうぞ」
鳥居元忠がすかさず言ってのけたので、みなは 「そうじゃ」 「そうじゃ」 と、子供のように応じていった。
家康は手を叩いて新太郎を呼んだ。
「もうよい。明日は門出かどで一献いっこん 汲もうぞ」
そう命じてゆくうちに不意に胸が熱くなった。
(言わいでものことを言うたが、それも無駄ではなかったような・・・・)
そうした安堵と無邪気に近い家臣の心がたまらなくなって来た。
(秀吉に、こうした家臣が幾人あろうか?)
褒美で釣れぬこの宝が・・・・思うと、家康もまた彼ら以上にたかぶりかける。家康は、あわてて顔をそらしながら、声を立てて涙を笑いにまぎらした。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ