家康は決してそれを忠次ひとりに言ったのではなかった。しかし忠次は、自分が叱られたと思ったらしい。渋い表情で忠勝をふり返って、 「その勢い、そのお覚悟ならば大事ござるまい」 と、口をつぐんだ。 「みなもよく聞け」
家康は言葉を和 げて、 「信念のない動きほど世を誤るものはないぞ。頼朝はきびしい信念に終始した。それゆえ、肉親の間では不幸な問題が続出したが、その開いた幕府は百六十年の長きにわたり、とにかく鎌倉武士の遺風と治績
を残していった。ところがその後に起こった足利氏にはそれがない。ただ天下を取ろうとするに急のあまり、人間の欲心をたよりにした。利で釣ってその上に古座
しようと計ったのだ。そしてその欲心の跳梁
のために、下克上の乱世を招いてわが座を犯され、かてって有名無実の存在になり下がった。家康はきびしいぞ。褒美はやらぬ。が、力のある者には力の伸ばせる舞台を作ってそれを与える。江戸へ入ったらの、それぞれ力を出してみよ。仕事は無限、みんなの力が充分に出せたら、新領は二百五十六万石じゃ」 一瞬一座はシーンとなった。 もしこの座に、本多作左衛門が居合わせたら、おそらくニヤリとほそく笑んだことであろう。彼の自己を捨てた駿府での諌言は、見事に家康の覚悟の中へ活かされている。 と、黙々として一言も発さなかった高力
清長 が、そろっと白扇を前において、 「上様へ」
そう呼びかけるまで、人々はこれでこの評議は終わったもののような錯覚にとらわれかけていた。 「何とぞご評議おすすめ下されたく、まだ一番大切なことをうけたまわっておりませぬが」 「なんと仰せられる、いちばん大切なこと・・・・!」 こんどは家康が黙っているので本多佐渡が口をはさんだ。 「一番大切なことは、無にひとしい江戸の地へおもむく心構え・・・・と、うけたまわりましたが」 「いいや、それがしのうかがいたいのは、そのような苦しい土地へのご移封を、なんで上様がご承知なされたか?
その根本のことでござりまする。それを承っておりませぬ」 「そうじゃ!」 と、本多忠勝が膝を叩いて応じていった。 「高力どのの言わっしゃるとおりじゃ!
百万石あれば、いつでも西上できると仰せられた。それほどの殿が、なんでこの無理な移封をご承知なされたか。われらはあれこれと想像はしているものの、まだ殿のお口からご本心を聞いてはおらぬ。それを聞けばない力まで出て来る道理、のう奥平どの」 「いかにも、これは大切なことを聞き落としておりました。関白を怖れるだけでご承知なさる上様ではない。上様には上様のお考えが・・・・そう想像しているだけでは力は出まい。上様!
これは是非ともこの場で、上様のお口からお聞かせ願わしゅう存じまする」 家康は困ったようにかたわらの佐渡を振り返って苦笑した。見ようによれば、それは別段ここで言うべき言葉でもないようにもとれる表情だったが、家臣にとっては、百万石あれば・・・・の啖呵
以上にききただしてみたい点であろう。 その一言でおそらく彼らはそれぞれの領地や配置の不満などは忘れてゆくに違いない。 家康は吐息した。 |