〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/14 (火) 江 戸 の 本 心 (四)

おそらく酒井忠次は、老臣上席の身として、いつまでも黙っている家康の態度に不満を感じているのであろう。
もちろんそれには別に理由もあった。
すでに諸将の家族までが移転に取りかかっているというのに、家康はまだ重臣たちの所領や落ち着く先を発表していなかった。したがって、それぞれの間には様々な風評が飛んでいる。
「── こんどは意想外のことをお考えじゃそうな」
「── 意想外!」
「── そうじゃ。いままで家柄を鼻にかけていた老臣衆も、実力本位、役に立たないと思われる者は、どしどし引き下げ、力ある者を登用のご方針ということじゃ」
「── ほう、その相談役が佐渡どのか」
「── 佐渡どのでは曲事きょくじ があろうというのか」
「── いや、そうではないが、それで、重臣が納まるのか?」
「── 納まるも納まらぬも、知らぬ他国へ出て行くのだ。ご命令に従わなんだらどうなると思うぞ。今度は松平のご一族でも、働きのない者はご譜代より所領も少なく城も小さい。それでびしびしたらねば関八州は治まらぬ。そのご決心じゃそうな」
そんな噂の中で、たった一つ決まったことは、小田原の城には、大久保忠世がさし置かれるらしいということだけだった。
小田原の城を預けられたら、その石高も四万石は下るまい。これで大久保忠世の実力評定はついたが、他の重臣はまだ手さぐりの状況で、家老上席の酒井忠次などは、その事でも少なからずあせりを覚えているのだった。
「殿!」 と、忠次はとうとう家康に向き直った。
「只今、戸田が話によれば、これからのご難儀並なみならぬもののご様子、むろん殿にはご自信がおありなのでござりましょうな」
家康は眼を閉じたままうなずいた。
「わしにの、百万石、確実にあがる土地さえあれば、何時なんどき たりと、大事の節は京へ攻め上る自信がある。案ずるな」
「みな聞かれたか。これは頼母たのも しい一言じゃ! したが殿、殿の強さを思うままに発揮なさるためには、家臣の方寸も早う決まるよう、仕置きを急がるるがよろしゅうござりますまいか」
「とは・・・・所領配置を決めよと言うことか」
「仰せのとおり・・・・」
「すでに韮山にらやま へは内藤三左を残して来た。小田原へは忠世、その後のことは江戸で決める。中途の配置変えは、かえって、領民にとっても領主にとっても無駄なことじゃ」
「しかし、家族の落ち着き先も決まらぬご移転では・・・・」
「忠次!」
家康ははじめてカッと眼を開いて、
「わしがな、配置の決意を急がぬのは、褒美で釣った天下のもろ さを歴史の上から学んでいるからじゃ。足利あしかが の天下が、なぜあのように早く乱れ、なぜあのような下克上げこくじょう の戦国へ突入したか、お許はそれを知っているか」
「さ、それは・・・・・」
「知るまい。知らねば黙って控えておれ。足利はの、重臣までを褒美で釣って、始から物欲の徒の集団を作ったのじゃ。よいか、関白もそれに気づかず、やたらに褒美を下される。家康は違うぞ。家康は褒美なくば働かぬような家臣は、一人もいらぬと決心した。それが関八州へ乗り込む覚悟じゃ。覚えておけッ!」

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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