〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/14 (火) 江 戸 の 本 心 (二)

江戸城はもと、鎌倉の管領扇谷おうぎがやつ 上杉氏の執事、太田おおた 持資もちすけ長禄ちょうろく 元年 (1457) に築き終わったよしの城であった。
その後、文明ぶんめい 十八年 (1468) に持資は主人定正さだまさ のために殺され、幾変転して、つい最近には北条氏の城代として遠山とおやま 左衛門佐さえもんのすけ 景政かげまさ が入っていた。しかし景政は小田原城に籠城していたので、留守居として江戸にあった景政の舎弟河村かわむら 兵部大輔ひょうぶのたゆう 重政しげまさ と、牛込うしごめ 宮内少輔くないしょう 勝行かつゆき の二人を真田安房守真幸の弟、信昌をして説かしめ、四月二十一日すでに徳川方の戸田とだ 三郎右衛門さぶろうえもん 忠次ただつぐ の手によって占領させてあったのだ。
そして、さらに、家康の関東移封が決定すると、内藤修理亮しゅりのすけ 清成きよなり が、家康の命を受けて大谷おおたに 庄兵衛しょうべえ村田むらた 兵右衛門ひょうえもん らをひきいて正式に城を接収してあった。
その江戸城へ、いよいよ家康自身で乗り込もうというのである。
家康は、立ち連ねた燭台の下に江戸城とその周辺の絵図面をひろげさせて、江戸からやって来た戸田三郎右衛門に城の説明を命じていった。
「三郎右衛、どのような城か、こなた、見たままをみなに告げよ。言葉を飾るな」
「かしこまりました」
戸田三郎右衛門は、具足のあとのしみついた衣類の袖をまくって、扇のかなめ を東向きの大手門にあてたが、それとはまるで違ったことを言いだした。
「大体、これは荒れるに任せた掻き上げ城で、東南は裾近くまで波に洗われ、東から北は一面の雑木林ぞうきばやし 、西北は水の腐った溜池ためいけ にて、このままでは何とも使いようのない狐狸の棲でござりまする」
重臣たちは一斉に絵図面を覗き込んで唸ったが、家康は黙って眼を閉じたままだった。
「太田持資・・・・つまり道灌の歌にある富士の高嶺たかね はたしかに軒にのぞまれまするが、この軒が腐れ果てたかや きにて、富士も見えるが、逆さすすきも生えているという風流なもので、大玄関が、何と舟板の段々という凄まじいものにござりまする」
「なに大玄関が舟板じゃと!」
そう言ったのは酒井忠次だった。
「仮にもわが君は大納言だいなごん じゃぞ。舟板の城に住めると思うか」
三郎右衛門は、そうした愕きは予期していたと見えて、
「率直に申し上げますると、三河あたりの荒れた大庄屋、そのくらいの構えとご想像願えばよろしゅうござりましょう。その代わり、大手をちょっと西南へ下れば漁ができ、城内で鷹狩りも自由という始末で、西から北、北から東へと掘りあげたほり には今ごろからかも都鳥みやこどり とか申す鳥類が群れておりまする。あの分ならば、やがてかり も鶴も飛んで参りましょう」
れ言は抜きにせよ。戯れ言は」
と、また忠次がせき込んで言った。
「関八州を治めるに足る、城下町になるかどうかを聞いているのだッ」
「わかっておりまする。それゆえ、このままでは話にならぬと申しあれているのでござりまする。背面の平川口・・・・この先に国府路こうじ (麹町こうじ ) が通じ、このあたりに点々と人家があるほかは人家らしいものもなし、そこで止むなく関白殿下にも寺へお泊り願いました。まずこれらの山を切り崩して埋め立てでもせねば、町にする土地がありませぬ。これは文字どおり国造りで・・・・」
家康は、いぜんとして石のように動かない。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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