家康が、後半生の運命を決定する江戸へ、初めて足を踏み入れたのは天正十八年
(1590) の八月一日であった。 家康より二日前に榊原康政が先発して江戸城に入っていたが、八月一日は、秀吉が宇都宮にあって常陸
の佐竹義重と義宣とに、本領安堵状を渡している日であった。 関八州と俗に言ううちにはむろん常陸も入っている。が、秀吉はここだけを佐竹に割いて、その代わりに伊豆を家康の所領に加えて八ヶ国にしたのである。 したがって、徳川家の家中には、この事でも不満の者が多かった。伊豆はむろんのこととして、甲斐と常陸は是非乞い受けたいという意見であったが、しかし家康はそれを押えた。 「──
もう少し強く出られてもよいのではござりますまいか」 本多佐渡までがそう言ったが、家康は、きびしい表情でさえぎった。 「── 佐渡、そちも気をつけるがよいぞ」 「──
それがしが、出過ぎると仰せられまするか」 「── 関白はの、天下第一の才知の人と自負されておわす」 「── それは、佐渡も充分に」 「──
才知と才知がぶつかり合って見よ、どうなると思うぞ。先方が才知でうまくわれらを取り籠めたと思うておわすのじゃ。こっちは無才、ただ篤実
一方で行ってこそぶつかり合いがかわせるのじゃ」 本多佐渡はさすがにそれ以上何も言わなかった。どこまでも秀吉との衝突を避けようとして忍んでおわす・・・・そう思うと、家康の苦衷
がわかる気がして、沈黙するよりほかになかった。 しかし、いよいよ江戸へ乗り込むことになって、小田原へ呼び寄せられた酒井忠次などの老臣は不平満々であった。 「──
聞けば関白は、関八州の地も内心では堀
秀政 に与えて、われらが殿は、奥州へ追い払う気であったと言うではないか。うまく堀が亡くなったからよいようなものの、小牧の戦で勝った殿が、何でそのように言うなりに機嫌を取らねばならぬにじゃ」 しかし、そのような事には家康はあえて答えようとしなかった。 彼の心はもはや江戸を中心にして関八州をどう経営してゆくかにかかっている。それ以前のことは、いっさい計算し尽くされた過去のことであった。 いや、もしここで家康が不平の色を見せたとしたら、秀吉はいよいよ彼の周囲へ意地悪い布石
の数をふやすだけ・・・・と、見透しているからであった。 常陸の佐竹氏はまだよいとして、甲府へはいよいよ秀吉腹心の浅野長政をおく気配であったし、浜松に堀尾
吉晴 、駿府へは中村
一氏 、会津へは蒲生氏郷、越後へは堀、信濃へは京極
と・・・・いわば、家康の周囲にわが手足をもって監視の鉄環
を築く気配と見てとっていた。 家康の新領になるべき伊豆を加えた八州は、石高
にして約二百五十六万石。 しかし、これは周囲の秀吉の配下のだれ一人とも事を起こさず、円満に協議してこそ得られる収入であって、一朝
紛争が起こったらたちどころに寸断され、攪乱
されるおそれがあった。 そうした江戸城乗り込みだけに、七月二十八日の夜、小田原城内に重臣を集めたおりの家康の眉宇
には、ただならぬ決意のいろがただよっていた。 |