馬で城門を出て、青葉いきれの濃い山道を、西から北へまわりながら、家康はほとんど口を利かなかった。 東側から海辺を通れば道は近かったが、家康はどこまでも慎重に、遠い山道を選んだのだ。 細川
忠興 の陣屋を左に見て、水之尾口から蒲生氏郷、織田信雄
の陣屋の前を迂回して、今井のわが本陣に帰ってゆくのである。 織田の陣屋に近づいたころには、蜩
の声が降るように森をつつんでいた。 「ちょっとお立ち寄りなされまするか?」 あとに従って来た本多佐渡が、信雄の本陣の前で馬を寄せて来てささやいたが、家康は首を振って通りすぎた。 「佐渡、わしは、また一つ大切なことを学んだぞ」 陣屋の前を通りすぎて、再び森の山道にかかったところで、家康はひとり言のように話しかけた。 「学んだ・・・・と、仰せられますると」 「勝つことばかり考えて、北条父子はついにみずから滅んでいった」 「勝つことばかり考えて・・・・?」 「そうじゃ。負くることを知らなかった。譲
ることを忘れていた・・・・」 「では、上様は、この上とも、関白殿下に、お譲りなさるお心で」 「佐渡、この次に、北条父子の嘆きを経験するのは誰であろうかの」 「は!」
佐渡はギクリとしたように織田の陣屋を振り返った。もう五ツ木瓜
の旗差し物は緑のかげに消えて見えなかったが、佐渡は、家康がなぜ信雄の陣屋に立ち寄らなかったかがわかる気がした。 「すると、上様は、こんどは織田の内府・・・・と、お考えなされまするので」 「シーッ」
と、家康は軽くおさえて、 「関白は、わしの旧領を、内府には渡すまい」 「・・・・そうかも知れませぬなあ」 「内府が、わしと同じように、負くるが勝ちの訓えを巧く学び取っておればよいが・・・・」 「と、仰せられると、国替えを申し出された折に、内府は素直に聞き入れませぬか」 「きき入れぬと知って、関白が命じて来れば、みごとに罠にかかる道理じゃが・・・・」 佐渡はキラリと鋭く家康を見返して息をのんだ。 これ以上聞く必要はなかった。 秀吉は、織田家の旧領の尾張を信雄から召し上げる代わりに、家康の旧領をそのまま渡そうと言うに違いない・・・・しかし信雄にとっては尾張の地は父祖代々の所縁の地・・・・たぶん信雄は、 「──
尾張はそのままわれらに」 と秀吉に乞うに違いない。 そうなると秀吉は、家康の旧領はむろん渡さず、尾張からも信雄を追い払う気らしいと、家康は見て来ているのだ。 あるいはそれが小牧、長久手の戦のおりからの秀吉の胸裏に秘めた方策だったのかも知れない。 (考え深いお方だ!
歯痒いほどに考え深い・・・・) 佐渡がそう思ったときに、 「佐渡、わしはな、家臣には多くは与えぬぞ。多くを与えねば働かぬ・・・・そのような家臣は、どれだけあっても無駄と悟った。それぞれが豊すぎると、結束力が弱まってかえって我説を押し通す・・・・北条氏滅亡の因
はそこにあったぞ」 佐渡は、びっくりして家康を見直した。 |